Fate/dragon’s dream

英雄たちの夜~士郎、セイバー~ 後編

「――要するに、鏡面を極限まで薄く削った鏡のようなものだよ。その心は相対した人の姿を取り込み、鋭く写し返す。もともと実体がなかった『戦乙女』という経歴に由来する――そうだな、体質、とでも言えばいいのだろうか」

「……だが、フォルカー。それとお妃様の容態とどのような関係があるのというのだ? なぜ、それで――彼女はあのように苦しまなければならない?」

「まあ最後まで聞けよハーゲン。――私とて、お妃様のような症例は初めてだし、そもそも神族の御方の都合などはよく分からない。だからこれは推測半分だということだけは覚えておいてくれ」
「ああ……」

「――今言ったように、それは鏡である己に他者の姿を写し取る行為に近い。即ちそれは――すでに己という自我が存在しているところに、他者の心に写る『お妃様の姿』を更に上乗せする行為なんだ。
 ……もともとあった『己』と、他者から定義された『ブリュンヒルド様』という観念が、一つの身体の中で同居する――それは、言ってしまえば二つの心による身体の取り合い――綱引きのようなものさ。
 お妃様が定期的に悩まされる幻痛や、精神の錯乱などの諸症状は、おそらくこの『綱引き』に身体が軋んでいるために起こるのではないだろうかと、私はそう思う」

「バカな……。そんなことがありうるのか? 他者から望まれた姿など、大抵は身勝手な妄想に過ぎん。そんなものの影響を受け、身体まで悪くしてしまうような脆弱な自我などを、あの方が持っているとは思えん」

「違うんだハーゲン、そうじゃない。確立した自我を持っているからこそだ。だから私は、先ほど『鏡面を極限まで薄く削った鏡のようだ』と言ったのさ。お妃様には確固とした自我も、それを収めるべき肉体もある。それなのに、その肉体は他者の自我をも取り込むように『できている』。
 ――あの方は、かつては戦乙女――シグルドによれば、それは実体を持たない無色透明な世界の『力』であるという。
 だからこそ他者の心を――英雄が死に際して最後に燃やす心を読み取り、彼らが己の選択によってヴァルハラへの道を選ぶよう、英雄自身の鏡となって彼らの前に降り来ることができた。
 だが、その魂が肉体という容器に固定されてしまっている以上、他者による定義など毒にしかならない。――お妃様は……魂、その存在の根幹が戦乙女のままだ。
 他者に定義されず、自立する観念と、他者により定義される観念とのせめぎあいが、あの方の肉体を蝕んでいる――その薄い鏡面を傷つけながら、不老の肉体で生き続けなければならない」

「……だが……それでは……」

「ファフが言っていたよ。『ブリュンヒルド様は本来この世に姿を持っていてはいけない方だ』と。自立した幻想――それは、我々の常識に当てはめるならば言葉の矛盾だ。主体無く存在する夢。主体より以前に――あるいは……主体と『同時に』、存在する幻――それは、ファフのような竜とは決定的に異なる、根源的かつ普遍的ななにか……それこそが、お妃様の本来の姿であるならば――」

「……」
「それは――正に『神』の定義そのものであり――ファフの言うとおり……『竜の見る夢』なんだろうさ」
 結局のところ、あの方は最初から全てをご存知だったのだろう。己が現世で「生きる」こと、それ自体がすでにヨドミであるということを含めて――

シグルドと彼女の間にどのような物語があり、どのように惹かれ合ったのか――今となってはそれを知るものはだれもいない。
 ただ、ひとつだけ確かなに言えることは――彼女こそが、理の守護者であったシグルドが、唯一求めた『永遠』であったということだけだ。

あの方はどのような存在だったのか――結局のところ、我々にはその程度のことすら、完全には理解し得なかったのさ。我等の物語を天より眺めていた残酷な神々の目には――我々はさぞかし道化に写っていたことだろう。

……竜の見る夢。ファフニールはブリュンヒルド様を指して『直系』という言葉を使っていた。ブリュンヒルド様のことを語るときには、ファフはなんとも言えぬ微妙な――羨望と畏れの入り混じった、複雑な表情を浮かべたものだった。

天界より降り来たりし戦乙女――元来姿を持たず、英雄の鑑となって彼らの進むべき道を指し示す無色透明な世界の力。

それは、人の望みによって作られながら、人の意思に影響されずに生れ落ちたもの。最も原初的な幻想――時と場所を越え、ヒトという種に刻み込まれた『夢を見る機能』の最も根幹をなすその力の具現が彼女であるならば、それを求める過程で産み落とされた竜にとっては、彼女らは正に――永遠の彼方にある綺羅星のようなモノであったのだろう。

しかし。それはカタチを持たない限りにおいて、そのように存在できるもの。
 幻想の根源から溢れ出した力がある種のカタチを取るとき、それはヒトの理解の範疇において意識されうる願いや夢へと収束することを意味する。そして、収束した――言語化された幻想は、同じ言葉によって変質させられてしまう。

シグルドが彼女の眠りを覚ませたその瞬間に、我等が綴る災いの物語は、始まっていたのだろう――
 グンテル様とブリュンヒルド様、そしてシグルドとクリームヒルト様との結婚――その後の数年間は、我等一族全てにとって最も平和な時間だったのかもしれぬ。

幾度か戦はあったが、侵略者たちは悉く、シグルドの振るうグラムに切り伏せられた。俺も、やつとは背中合わせで剣を振るったものさ。グンテル様とブリュンヒルド様とに支えられ、我等の国はおおいに栄えた。

シグルドはあれで意外と愛妻家でな、幾度もふらりと旅に出かけたりはしていたが、その度に突拍子もない土産を持ち帰ってはクリームヒルト様に怒鳴られていたよ。
 クリームヒルト様も変わられた。シグルドとの結婚生活が幸福だったのだろう。彼女はもともと極めて聡明でな、魔術を始めさまざまなことに対し意欲的に取り組んでおられた。

シグルドとの出会いの前は――まあ、一国の姫がどのように育てられるかは、お主ならよくわかっているだろう。俺は彼女を小さいころから見守ってきた。
 シグルドは、彼女に再び笑顔を戻してくれたのだよ。宮廷の束縛から逃れたクリームヒルト様は、ようやく籠から出られた大鳥のごとく、生まれて初めて生を謳歌していらした。

――そう。それは我等の黄金の時間だった。シグルドのもたらしたものはそれほどまでに大きかった。ニーベルンゲンの財宝は国庫に巨万の富をもたらし、ブリュンヒルド様はグンテル様と結ばれて国の象徴となった。

クリームヒルト様は笑顔を取り戻され、その才能を存分に発揮し、たちまち魔術学の方面に頭角を現した。俺の親友だったフォルカーという魔術師に師事し、乾いたスポンジのごとく知識と技術とを吸収していった。

唯一の懸念であったブリュンヒルド様の、シグルドに対する感情も、時間が経つに連れ徐々に軟化していった。我々はそれを、クリームヒルト様と同じように、グンテル様との生活が彼女を変えていったのだと思った。

それにブリュンヒルド様とクリームヒルト様も――いや、これが意外なことにな、彼女達は共にシグルドという英雄に惹かれた身であったためだろうか、楽しげに二人で歓談なさっておられることが多くなっていった。

クリームヒルト様は幼いころから唯一の趣味として認められていた料理の腕を存分に振るってな、ブリュンヒルド様を唸らせておったよ。ブリュンヒルド様もまた、人間では決して得る事のできないはずの知識を、許される範囲で伝えておられた。
 そうして幸福な時間が一年、二年、三年と過ぎていき――『それ』が始まった。

ある時、ブリュンヒルドが倒れた。身体の痛みを訴え、医学の心得のあるフォルカーがそれを診る。どこにも異常がなかったにも関わらず、ブリュンヒルドは断続的に、あるはずのない痛みに苦しめられ続けた。また、稀に訳の分からないことを口走るようになる。

――幻痛と錯乱。それは崩壊の予兆。
 時を同じくして、臣下の間に奇妙な噂が流れ始めた。

ブリュンヒルドは主神オーディンによって追放された戦乙女であるから、その彼女を娶ったグンテルとこの国にも、オーディンの怒りが降りかかるかもしれないというのだ。たまたまその年は各地で天災による被害が出ていたため、国民の不安も追い風となり、野火のように宮廷に広がっていった。

――宮廷に噂が流布する時は、大抵口さがない宮廷すずめ達によるものだと相場は決まっている。
 ひそひそ――ひそひそ――

――いわく
 お妃様はやはり神さまなんだ――
 あの方は本当に、歳をお取りにならない――
 ブリュンヒルドは――歳をとらなかった。

人々が年月を経るごとに容貌が変化するのに対し、ブリュンヒルドは初めて国民の前に姿を見せたときから全く変化していない。事前にそのことを知らされていたものたちも、最初のうちこそ受け入れてはいたものの、実際に目の当たりにし、それを実感すると薄気味悪く思わざるを得ない様子だった。

枯れ草の原に燃え広がる不安。
 ヒトとカミとの壁――。
 それは、不信と疑念を招き、培われた友情さえも侵し、そして――

『――この指輪を、御覧なさい――!』
 崩壊は速やかに進んだ。愛は憎しみへと転じ、ブリュンヒルドは敗北した。勝利の栄光に包まれた戦乙女は、いつしかヒトを、運命を呪う復讐の女神へと変じていった。
 このままでは、ブリュンヒルドは己が存在までをも呪い、そして朽ち果てていく――

それを憂いたのは二人の英雄。
 『竜の見る夢』を護るために、彼ら二人は、同じ志を持ち、そして正逆の方法でそれを為そうとし――

『ブリュンヒルドを悪夢にはさせねぇ――俺が、この手であいつを――!』
『生かし続けることでしか――愛せないのだから!!』

「俺は――勝ってしまった――」
 セイバーはハーゲンの寂しげな笑みの奥に、慈愛と悲哀とを見る。

「そして俺は、シグルドが為すべきはずだった使命を背負った。ブリュンヒルド様を、彼女の運命から解き放つという使命を。その姿を失わさせずに、彼女を救うという、矛盾に満ちた不可能な道を――」

そして、もう一つ、避けられない運命があった。
『ハーゲン……貴方は、私が、必ず……必ず――』
 クリームヒルトの憎悪。最愛の夫ジークフリートの命を奪った憎きハーゲンを、彼女はいつか必ず自らの手にかけると宣言する。

しかし彼女のその想いをもハーゲンは跳ね付け、ニーベルンゲンの財宝をラインの乙女と呼ばれる水の精霊たちの力を借り、ライン河へと封印した。
「だが、このとき俺は未だ知らなかった。ニーベルンゲンの財宝の要とも言うべきモノが存在し、クリームヒルト様の手にあるということを」

「それが――ニーベルンゲンの、指輪――」
「そうだ。アンドヴァラナウトと呼ばれ、万物の魂を支配する力を持つとされた至宝。俺は詳しく知り得なかったが、その力を使えば死者を蘇生させることさえ可能な力を手にすることができた」
「死者の、蘇生――!? そ、それでは、まさか――!?」

「――そう、見えてきたようだな、我ら一族が滅亡した『災い』とは一体なんだったのかが。
 ……丁度その頃、ある国から寡婦となったクリームヒルト様を娶りたいという申し出があった。我々は、当然彼女は断るだろうと思っていたのだが――」
「彼女は、それを受けた。それは――」

「――『指輪』を、俺とブリュンヒルド様の目の届かぬところへ運ぶためだったのだ。
 ……我らはその行動の性急さに――あれほどシグルドを慕い、この俺に憎悪を募らせていたのだからな――戸惑いつつも、それを王族として与えられた責務を全うする行為と捉えてしまった。
 この頃、ブリュンヒルド様はずっと臥せったままになってしまわれていたが、シグルドの死を契機として錯乱は徐々に収まり、ようやく再び冷静に周囲を見ることも可能になりつつある時期だった。……彼女は己の罪の重さに潰されそうになっていた。私が人の世に生きること、それ自体が不幸と運命のねじれを呼び寄せてしまうと。
 だが、消滅という救済をもたらすはずの英雄は他でもないこの俺が葬り去った。俺は――なんとかして彼女を救いたかった。また、以前のように、グンテル様との幸せな日々のなかに、居場所を見つけて欲しかったのだよ。
 だが、それは――すぐにかなわぬこととなった。あり得ない事件によって、な」

「――あり得、ない……?」
「……」
 ハーゲンはグラスの中に注いでいた視線を広い上げ、天空に向かって投げかける。
「――ブリュンヒルド様が姿を消した」

「……!」
「彼女は、動ける状態ではなかった」
「――誘拐、されたというのですか」
「白昼堂々、王宮のまっただ中から、な」

「――」
 呆然とした。それがどれほど不可能であることか、王宮という場所をよく知るセイバーには分かる。

王族というものは、さまざま意図、理由によって常に見張られていると言っても過言ではない。公の場では当然のこと、私的な空間においてさえ、侍従や侍女は常に傍らに控えている。

ましてや、ブリュンヒルドは病で臥せっていた。当然のこと、侍女や医者が何人も常時待機していたであろうし、こと事態が事態なだけに、宮廷に仕えていた魔術師たちも警戒していた可能性がある。

そもそもブリュンヒルドは神の眷属。ただの人間の姫ならまだしも、そんな存在が病と言えどむざむざかどわかされるとも思えない。それなのに――
「魔術的な痕跡などもなかったというのですか――!?」

「宮廷魔術師たちはこぞって責任の擦り付け合いをしておったよ。だが、俺の親友でもあり宮廷魔術師としても優秀であったフォルカーでさえも、そんな痕跡はないと言っていた。
 仮に、誘拐が魔術によるものであったとしても、そやつでさえ感知できないのであれば他の宮廷魔術師ではとても歯が立たないだろう」

「――バカな、それにしても――」

「そう、バカな、だ。結局全てが終わっても、どうやってブリュンヒルド様をかどわかしたのかについては分からずじまいだった。だが一方で、誘拐の痕跡がない以上、ブリュンヒルド様が御自身の意思で出ていかれた可能性も否定し切れなかった。
 なにせ彼女自身が、王宮において最も秀でた魔術師でもあったわけだからな」

当然、その失踪については隠蔽され、王の命のもとで必死の捜索がなされた。しかしその行方は杳として知れず、焦燥感だけが募っていったころ――
「クリームヒルト様から書簡が届いた」

「――やはり、彼女が手を引いて――」
「半分はな。……これは俺の推測だが」
「……? クリームヒルトが復讐のためにブリュンヒルドを攫ったのではないのですか?」
「――結論から言えば、そうだ。だが――」

「――」
「先ほども言ったように、どうやってブリュンヒルド様をかどわかしたかについては分からなかった。だが、どのような経緯であれ最終的にブリュンヒルド様はクリームヒルト様の手に落ちていたことだけは事実」

「――それならば――」
「……そうだな。いや、この話はここですべきではないようだ――」

「……クリームヒルトの書簡は、なんと?」
「饗宴への誘いだよ。あとは、お主たちも知る通りだ。俺は確実にこれが罠だと考えた。だが一部には、クリームヒルト様は既に過去を水に流していると考えるものもいた。――最終的には、王は出立を決意なされた」

「……解せませんね。ハーゲン殿の進言を軽く見るような君主ではないはず。肉親の情に流されてしまったのでしょうか――」
「……」

それから先のことは、多くの物語に描かれている通り。その出立は、死出の旅路の始まりに他ならず、 グンテル王たち一行は罠に落ちた。
「――シグルドの蘇生を目論むクリームヒルト様の罠に、な」
「――やは、り……」

「そうだ。クリームヒルト様は指輪の力を使い、シグルドの蘇生を行おうとしていた。ブリュンヒルド様を攫ったのもこの儀式のために他ならない。神に近い彼女の身体そのものを術式の炉心とし、指輪の力を用いた術を施行しようとしていたのだ。
 ――我々は、この術の施行のためにクリームヒルト様が呼び寄せた生贄の役割だった」

グンテル王一行はよく抵抗した。しかし、己が国におびき寄せての戦のこと――クリームヒルト軍は圧倒的に物量に勝り、彼らはどんどん劣勢に押し込まれていく。

しかし一方で、ハーゲン達はクリームヒルトの目論見を見抜き、その術式の内容、施行する場所を――そして、ブリュンヒルドの行方を突き止めた。
 ……彼らの、王の命と引き換えに。

『我が妻と妹を救ってやってくれ』――それが王の今際の言葉だった――」
「……」
「――生き残ったのは俺とフォルカー。そして手練の近衛兵十数人のみ。敵の目を欺き、俺たちはそこへ向かった」

そして、そこで彼らは見る。天に捧げられし神の眷族を。巨大なとねりこの木に磔にされた、見失い、捜し求めたブリュンヒルドを――
「一目で悟った――彼女は、もはや助からないと。俺たちは――遅すぎたのだと。だから俺は――」

彼女を、救いたかった。
 避けられぬ悲劇に抗った。
 彼女に死の安息をもたらすはずの運命をもねじ伏せた。
 絶対的な矛盾に立ち向かった。
 己の全てをかけ、守り通そうとした。

――その結果が、これだった。
 己が想いでは、救えなかった。
 神々のあざ笑う声が聞こえた。
 全ては――神々の掌の上のできごとだったのだと。

――しかし。
 全ての意思が、彼女の救いを求めていた。
 その意思の前には、自分の身勝手な願いなど、なんの意味があろう?
 何か大切なものを捨てても得なければならないものがあるとしたら。
 それを掴み取ることに、ためらいなどあろうはずもない――

『ヴァルキューレ(戦乙女)よ、我はここに契約を求める。我が死後を預ける代償として、神殺しの罪を許したまえ――』

だから。シグルドのできなかったことを、それを否定した我が手で為しとげよう――
 それが、俺が求めた結末なのだと、胸を張って言えるように――!

『さらば――我等が求めた永遠よ――!』
 風が吹きすさぶ。頭上に輝く新円は、その青い光で黒き英雄の過去を照らす。
「――我らは、我らの物語を綴った。俺は己の決断を誇りに思うよ。俺は最後には、あの方をお救いすることができたのだから」

ふふ、とハーゲンは笑う。
「――しかし、……それは、貴方が望んだ救い方ではなかったはず、だ――」
 セイバーの声は弱い。

「それは違うな。如何なる形であろうとも、ブリュンヒルド様の解放は、俺の望んだ結末だった。俺は確かに、かつてその形を否定し、その想いで不死の英雄さえも倒してのけた。
 だが、その事実と辿り着いた物語の結末に齟齬はない――なぜなら、それが人間というものだからさ。迷い、選び、失い、培う。不完全であるが欠落がない故に、完全ではあるが不可避の欠落を有する神々には決して越えられない壁を越えることができる――その代償は大きいとしても。
 俺は、英雄の器ではなかった。ごく自然な、人間の騎士に過ぎなかった。あまりにも――人間であり過ぎた、本当にただの、一介の騎士に過ぎなかったのだ。それが、この俺が、ブリュンヒルド様を救えた理由だ。
 ……そしてまた、人間だからこそ、人ならぬ望みをかなえることはできなかった。しかし――」

ハーゲンは、セイバーを見つめる。士郎では絶対にありえない眼光に、セイバーは怯えにも似た感情を覚えた。
「人の身として生まれつき、失うことによって後天的に英雄たるべき『資質』を得たものならば、あるいは――」

「ハ……ハーゲン、殿――」
「――それを憧れだと、彼は言う。憧れ、だと――? ふ、何と愚かなことを。破壊された心が、そのような能動的な情動を持つことができるものか」
「ハーゲン殿!」

理由の分からない焦燥に駆られて、セイバーは叫んだ。言わせてはいけないと、本能で悟った。その言葉は、この夜に包まれた世界そのものを、根底から揺さぶってしまう――

「人のこころ(精神)は肉体を越える事はできない。それが出来るのは神々と、それに連なるものだけだ。なれば、いかなる矛盾があろうとも、そこには肉体まで含めた合理性があるのが必然。
 ――衛宮士郎。彼の根幹となった正義の味方という概念は」

死ぬのが当然と思い知らされて、心にはなにもなくなった。その時に、助けられた。『彼』を助けた男は、目に涙をためて微笑んでいた。

――それが。なんて幸せそうなのだろうと。
助かる筈のない子供と、いる筈のない生存者を見つけた男。
 ……何もなくなっていた『彼』を、十分すぎるくらい、衛宮切嗣は救ってくれたのだ。

“――じいさんの夢は、俺が”

「――所詮、真に望む死という終焉への足がかりにすぎないのだから」
 ――ああ。今、セイバーは初めて、ハーゲンをジークフリートと同じ、ドラグーン(竜殺し)として認識する――

「そう。、衛宮士郎にとって、正義の味方という概念は目的ではない。破壊された心にいぶき(生気)を与え、肉体を死へと導くための燃料――手段に過ぎぬ。
 彼の目的は、言うなれば『死』そのものだ。業火の中で絶望により破壊された心は、もはや救われた肉体を駆動させることはできなかった。彼は生ける屍となり、例え肉体が助かってもからっぽの抜け殻になるのが関の山だっただろう。――あの男(衛宮切嗣)が差し伸べた手がなければ」

――それは、決して言葉にしてはならなかった禁忌。明かされてはいけなかった過去。照らされてはいけなかった暗闇。
 赤く染まる回廊で雌雄を決した二人の英雄の全てを破壊する、残酷な真実だった。

「――彼は生を求め、そして、その先にある死を求めた。故にこそ、彼は己の命を賭して他者を救う。正義の味方である中で、肉体の死を得ること――死になおすこと。それこそが、彼の真の目的――彼が差し伸べられた手を取った理由であり、彼自身の意識を遠く離れた、自己の求めた物語の結末なのだから。
 それは情動すら存在する余地のない、純然たる自己防衛本能。砂漠に迷い込んだ者が水を欲するように、溺れかけた者が空気を欲するように――ただ、生存のために必要最低限の養分を得ようと、身体が求めたものにすぎん
 彼は絶望から救い出してくれた人間に、その行動に憧れたと言う。彼自身はそうとしか認識できないのであろうが、外から見れば、そこに憧れなどという能動的な意志はなく、あるのは本能によって引きずられた思考のみということは一目瞭然。
 ……自己犠牲による他者の救済などどこにもない、あるのはただ、救おうとした人間とその行為とを己の生きる糧とし、己の死という最後の望みをかなえるためだけに、他者を食い尽くす利己的な姿だけだ。たまたまそれが、多くの他者にとって基本的に有益なものである、というだけでな。
 自身の安全を省みず、正義の味方として死ぬことは、彼にとって極めて合理的なことなのだ。その結果、誰を泣かせることになったとしてもな。
 ――なればこそ、何故英雄エミヤなどという存在が生じ得てしまったのか分かろうというもの。衛宮士郎が『正義の味方』を憧れの果てに求めた目的と取り違え、死に際してそれを求めてしまったらどうなると思うかね? 本来手段であるはずの『正義の味方』を、本来の目的であったはずの『死』を引き換えにして手に入れてしまったとしたら?」

「ハーゲン殿……! 貴殿は――!」

「――やっと辿り着いたはずの『死』というゴールは、己の物語を正しく読み解くことができなかったために永遠に失われ、しかも新たに据えられた『正義の味方』という目的は、矛盾に満ち、己の手に余るモノだったとしたら? 過去の自分に文句の一つも言ってやりたいと考えても何か不思議なことがあろうか。
 ――そして、そのような下らぬ想いに振り回され、穢された竜の立場はどうなる。人々は堕ちた英雄を見て“理想に裏切られた”などと、まるでそやつが被害者のように言うだろう。彼を守護していた竜は突然ヨドミに染まり、彼を毒で染め上げたのだと――まるで竜こそが英雄を破壊した悪であるかのように――!

「貴殿は――貴殿までもが、シロウに呪いを残そうというのか――彼はもう、十分過ぎるほどの重荷を背負っている……! 過去と未来から遺された呪いに耐えていかなければならない運命だ! それなのに、貴殿までもが、シロウに己の果たせなかった物語を託そうと――!

「……後天的に欠落を持ち、歪をまとった衛宮士郎は、人でありながら英雄へと“堕ちた”者。
 その始まりに一切の意志も感情も存在しないが故に、現在の彼は究極的に純粋だ。なぜならそれは、人としての有り方を歪めてさえも、生物としての機能を優先するという、真に機械的な、自動的な選択の結果なのだから。
 タナトス(死への衝動)により自己判断力を失った壊れた自動人形――願望も、意志も、愛憎も、そこにはなかった。今、彼が持っているそれらは全て、後から呼び寄せた付属品。それが装いであることさえ本人には気づけない、心に付着してしまった装飾であり、同時に免罪符にすぎない。
 だからこそ、俺は――この物語を託す。人ならざる答えを求め得るは、人ならざるもののみ。
 彼ならば――あるいは、見つけられることができるかもしれぬ。それを呪いと言うならばその通りだ。だが、今のままでは確実に破滅しかもたらさぬぞ。お主は澱み穢れ、衛宮士郎は掃除屋と呼ばれる守護者の雑兵と成り果て、竜の寵を失うだろう」

ならば! ならばその想い、シロウではなくこの私に託したまえ! 私は穢れない、シロウと共に生き、どこまでも彼を守護することをここに誓う! 我が全ての意志を以って、穢れとヨドミの運命に抗ってみせる! だから――!

『竜に意志なんてない。あなたはそんなことも未だ分からないのね』
 ガランガラン――ガランガラン――!
「これは――!?」
「結界が――!」

夜のしじまを引き裂く鳴子の音。あの聖杯戦争の折に幾度も聞いた、不吉の象徴。同時、夜空の一角を切り裂き閃光が庭先の上空に飛来する――!
「う……」
 そのとき、結界の作動を感知したのか、低く士郎が呻いた。

「いかん、士郎殿が目を――何奴!
「あれは――凛の――!?」
 閃光を纏った何かは軒先の上空に静止している。見上げ、それが何であるか認識したセイバーに、彼女のマスターが決死の覚悟で込めた念話が伝わった。

『士郎、セイバー、ゴメン! 失敗したわ、二人とも今すぐ冬木から離れなさい! あいつらの目的は』
 ドサ――
「!?」

念話は唐突に途切れ、宙に静止していた宝石細工が庭に墜落する。そして
「だって、あたしたちは夢なんだから――」

月光に蒼く染まる庭は、まるで深海に沈んだ遺跡のように。夢現(ゆめうつつ)のあわい定かでなく、そこに現れ出(いず)るは夢幻。金色のたてがみは豊かに波打ち、あくまでも深き群青の鱗に一際輝く瑠璃色の瞳。
 神秘が、そこに在った。しかし。

――筆舌に尽くせぬ美とは、時としてありとあらゆる認知を越えてしまう。存在が、認知に先行してしまうのだ。そして、ようやく意識が存在に追いついたときには、それは既にして感知し得た元のものではない。

――庭先に佇むは、月光を押し固めて創り出したかのごとき妖精。それは、少女の姿をとっていた。その白と金と濃紺の彫像は、見るものに幻想と現実との境目を見失わせるに十分に足りた。

足元に転がる宝石を踏み越え、緩やかな足捌きで幻が動く。
 ザッ――
 踏み出した足の下で草が鳴り――その音を合図として、時間が再び動き出す。

「――ファフ、か」
 静寂を打ち破ったのはハーゲンだった。
「シグルドは――近くにはおらんようだな」
「うん、お遣いだからね。こんばんは、アルトリアさん。そしてお久しぶり――ハーゲンおじさま」

「ファフニール! 凛をどうしたか答えてもらう! 返答次第では――!」
あーあー、うるっさいなぁもう! 折角雰囲気出してみたのにぃ!
 あなたも竜ならもーちょっと慎みをもったらどうなの? そんな押し付けがましい態度じゃすぐ捨てられちゃうよん、っと」

「な、な、な、何をたわけたことを!!」
「まー安心なさい。凛さんはちょっと動けなくなってるけどケガもしてないし命にも別状はないわ。そんなことより」
 ファフニールは激昂するセイバーを軽くいなし、ハーゲンに向き直った。

「――久しいな。息災か」
「――クス。変わってないね、そういうところ。おかげさまで私もシグも元気でやってるわ、おじさま」
「お前が単独で来るということは……奴はいよいよ何か行動を起こす気だな? 何を伝えに来た」

「ん、余計な話をしなくて助かるわ。この状態って結構つかれるからねー。
 えっとね、衛宮士郎にアルトリアさん、そしてハーゲンおじさま。三人にはこの冬木の地で聖杯戦争なるものを起こす起動魔法陣、『大聖杯』と呼ばれる装置のある場所まで来てもらいます」

「――な――!」
「……」
「拒否はできません。あたしたちは凛さんを人質として扱うことはしないけど、もし来なかったら」

「――!」
 セイバーが身構える。そんな様子を一瞥し、ファフニールは鼻で笑った。
「――もし来なかった場合、凛さんがどんなことになっても責任もてません」

「――それは人質と同じことなんじゃないのか」
「――! シロウ!」
 はっとして士郎を見る。先ほどまで淡い光を放っていた額の令呪は、今は沈黙するかのようにくすんでいた。
(……)

「んーそうかもねー。でもあたしたちの意思でどうこうするってわけじゃないから。
 凛さんは、この物語を見届ける役。あなたたちが不甲斐ないから、彼女は本来の役目を剥奪されてしまったの。『宝石』は今や私たちの手にある。ソレを取り戻したかったら来なさい。来なかったら、ソレは永遠にあなた達の手から失われる」

「……」
「ま、こんなことを言わなくても、来るんでしょう? ね――アルトリアさん」
「当然だ。凛は私のマスター……是が非でも取り返させてもらう」
「――それと、ハーゲンおじさま」

「……なんだ」
 呼びかけに応え、額の令呪が光を増した。
「シグからの伝言があるの。『お前に聞きたいことがある。絶対に来やがれ』――だって」
「奇遇だな。俺も奴には言わねばならんことがある。絶対に逃げるなと伝えておいてくれ」

「あははっ。予想通りの言葉だねー。あとは衛宮――」
「行かない理由はない。遠坂をあんな危険な目に合わせたのは俺のせいでもあるんだからな。――絶対に取り返して見せる
(……)

「――士郎、さん。……あ、そ……。じゃ、じゃあ、これで三人ともOKをもらえたということで――いいのかな……?」

「――場所はどこなんだ」
「およ? もう知ってるんじゃなかったの? 柳洞寺っていう寺院がある山の地下にある大空洞よ。ここから少し西にいったところかな。入り口はすぐ見つかると思うわ」
「わかった。それと寺院じゃない。寺だ」

「ブッキョーとか言うやつね。どーでもいいよそんなこと。さて、お遣いは終わりだけど……」
 ファフニールがセイバーに向きなおる。その瞬間、士郎は確かに見た。ファフニールの双眸が、確かに一瞬、虹彩のない瑠璃色の――人以外のモノの目になったことを。

「――あたしたちは夢。夢は見られるもの、与えるもの」
「……」
「夢を見るモノに心と身体を開き、犯され、与える――だから、あたしたちは――」
「黙れ――!」

「……そして汚される。でもね、それでいいの。あたしたちは否定されることによってのみ、肯定されるのだから。
 ……だからあたしは、あたしだけは、シグと共に行ける。最初から終わっていたあたしは、他の竜たちが当たり前のように持っているモノを持ってない。どんなに憧れても、それは手に入らなかった。そんなあたしにとって、それこそがたった一つの誇りなの――
 それでも、希う。希わずにはいられない――手に入らないのなら、いっそ全て捨ててしまえればよかった。
 でも――想うだけ。あたしたちは鏡。鏡面のない鏡。夢見の呪縛に囚われたモノ(存在)――そんなモノに、意志なんかないのだから」

「―――ッ!!」
「――夜の終わる地で待ってるよ」
 そして。
 ファフニールは足元の宝石を拾い上げ、ふと、哀しみにも似た視線を投げかけ――

「あ――」
 彼女の姿は、まるで月光の中に溶けて行くかのように――徐々に輪郭を失い、消えた。
 後には、おずおずと再開された小さく儚い虫の音ひとつ。

(シグルドが動いた――やはり、大聖杯とは――)
 士郎の中で、ハーゲンは密やかに思う。
「……セイバー? 大丈夫か?」
 月光に照り返されているだけではないだろう。セイバーは青ざめた顔を、ファフニールの消えたその場所へ向けていた。

「――大丈夫です、シロウ。――それよりも、あなたこそ身体の方は大丈夫ですか」
「ああ、心配ない。まだ多少、節々痛いけど大丈夫だ。柳洞寺か。遠坂の言ってた通りだな。――準備ができ次第すぐ出発しよう」

柳洞寺の地下――竜のはらわた。
 ――夜の終わる場所。
 英雄たちは、それぞれ、来るべき朝に想いを馳せる。staying night(夜に漂いながら)。

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