答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~

第三章 断罪の刃

第四節 無法裁判

アリスの部屋を出たエースは、一輪の薔薇のように際立つ赤色をすぐに見つけた。しかし彼は刺すような気配に部屋を出る以前から気づいていた。自分に向けられたものだと理解していたから無視を決め込んでいたのだ。

「夜這いであったら邪魔してやろうと思ったぞ。夜中に女の部屋に行くものではない。お前、仮にも騎士だろう……?」
「陛下……。俺は傷付いた女の子を襲うほど飢えちゃいませんよ。嫌われたくないし」

ビバルディは不機嫌そうに腕組みをし、壁に持たれかかる。エースはデバガメですか、と呆れたように溜息をこぼした。そんな部下の態度すら水の如く受け流し、何かを思い出すようにビバルディの目が彼方を見る。

アリスと過ごした時間はまだ短いが、賢い友人は彼女の悩みは概ね察している。自分に自信が持てず、理想と現実の狭間に落ちてしまっていること。自らを貶め続ける限り、アリスが自身の価値に気付くことはないのだろう。

理想像というものは永遠に届かぬ美しい夢のようなものである。目指す分には良いのだろうが同一にはなれず、ある種の聖域とも言えた。高みに昇れば昇るほど絶対不可侵なものになる。アリスにとっての聖域が彼女を蝕み続ける矛盾に、女王は少なからず同情した。

闇よりもなお暗い笑みをエースは浮かべた。
「変われない彼女を見ていると安心するんです」
 
この男は変化など望んでいない。

女王は片眉を吊り上げて問うた。
「お前が変われぬようにか」
「ええ。自分を変えたいのに、変えられない。見込みのない希望を諦められない。それが例えようもなく愛しいんです。いつまでも、そのままでいてほしい」

自己嫌悪のせいか、一つ溜息を漏らした。眼差しは昏い光を宿し、口元は歪んでいる。いつもの騎士とは違い、爽やかとはほど遠いものであった。

「俺、自分で言うのもなんですけど、最低な男だという自覚はあるんですよ。俺以外にすがれなくなるまでアリスを追い詰めて、つけこもうとしてるんですから……」

女王はにんまり笑って首肯した。騎士がここまで影響を受けるとは彼女にも予想外であったからだ。常日頃やりこめたいと思っていただけに、この動揺ぶりは今の彼女にとっては小気味いい。

お気に入りの玩具を取られるのは悔しいが、十分に遊興に値する。部屋中のぬいぐるみをいたぶるよりも、城中の家来の首を刎ねるよりもきっと興奮する。退屈を厭う女王様の気分を害しない限り、二人の仲を応援するつもりでいた。

「まあ最低は最低じゃな。だが支えを失って、情緒不安定になっておるのもまた事実じゃ。今、誰も側におらねば、きっとあの子は壊れてしまう」
 幾分か複雑な気持ちでビバルディはその言葉を紡いだ。あの余所者の少女は多くの人に大切にされているのに、それを感じ取ることができない。

――独りから逃れられない。この、小憎らしい男を除いて。

ちりりと爪で掻くような胸の痛みをビバルディは無視して、手の中の物を見た。赤い爪に彩られた指には控えめな小花が摘まれている。数時間帯前にアリスから贈られた物だが、大輪の薔薇のような女王にはやや不似合いの感が否めない。同じ手で多くの生命を奪う女王は触れるのも戸惑うほどに大事そうにそれを持つ。

――例え萎れてしまっていても、アリスの残滓がそこに残っているかのように口付けた。
「――わらわの一番大事な玩具。壊れやすいからこそ、ひどく愛しい」

アリスの適応能力は高く、人並みに肝は据わっているが、本人が思うより心は繊細である。

「……陛下のじゃありませんけどね」
 
女王の言に、部下は苦笑いをした。
「真に癪ではあるが、あの子が側にいることを望むのはお前だ。自分で道を選ぶまでは優しくしておやり」

「陛下に言われなくたって、そうするつもりですよ。俺以外の道なんて全部断ちます。どんなに迷ったって、必ず俺のところに来ますよ
 それは希望とか予定とか生易しいものでなく、『決定』であった。

「……ほんに、お前は壊れておる。こんな終わってる男のどこがいいのか、わらわには全く分からん。あの子は男を見る目がない」
「ははははは、年増で暴君な陛下の良いところなんて、俺には恐れ多くて全然見つかりません。お互い様ですねえ」
 
廊下では男女の『可愛くない』という言葉が見事に重なった。


暗い部屋に残され、ベッドに寝かしつけられた今もアリスの目は冴えている。布団の中で一つ溜息を落とした。

「……厄介だわ」
 
エースが義務で優しくしてくれるなら、何の遺恨もなく元の世界に帰れるのだ。そうでないのなら――厄介なことになる。

「……このままじゃ、私きっとエースを傷つける。分かってたのに。親しくなりすぎちゃ駄目だって……」
 闇に触発されて、暗い感情が湧き出す。

その日、彼女は一つの決意をした。

his_heart

月の光が差し込む法廷にはアリスとエースの二人しかいなかった。裁く者も裁かれる者もいないのに厳かな空気が取り巻いている。

騎士は彼女の呼び出しを受けて、今この場所に立っている。アリスは青白い顔をしているものの、何かの決意を秘めた目をしている。なかなか用件を言わないので、時間だけがより無意味にすぎていく。

やがて小さな唇が言葉の形を搾り出した。
「これ以上私の心に入って来ないで。私、この城を出て行くわ」
 
一瞬、騎士の体が固まった。  アリスがエースを拒絶した。それを彼が理解したとき、全ての表情が仮面のように剥がれ落ちた。とても静かな、揺るぎない声が法廷内に響き渡る。

「へえ、そうなんだ。決意は変わらない?」
「ええ。私はハートの城を出て行くわ」
「なら答えは簡単だ。二つだけだから」

剣を鞘から引き抜かれると共に、鈴のような音色が響く。そして切っ先は対象へと向けられた。鏡のように磨き上げられた刀身は、血に濡れたことなど忘れさせる程に刃こぼれも錆も傷も無い。

――それは当たり前のことだった。ここは時間が巻き戻る世界。アリスもエースも全ての時間が行ったり来たりする世界。痕跡を全て消して無かったことにしてしまう世界。持主と同じく血塗れの記憶を隠し、何も無いからこそ澄んでいられた剣。

――けれど今は曇っている。

「今すぐ死ぬか、ここに留まるか選んで」
 
突拍子もなく理不尽な提案をアリスは当然却下した。相手にふざけた様子は全く見られない。困惑するどころか彼女は憤慨した。冗談のような提案にまともに付き合ってはいられない。

「私は城を出て、何とかして家に帰るの。何で死ななきゃなんないのよ」
 怒った顔すら愉快そうに騎士は薄ら笑いを浮かべた。アリスにとってはいつもの張り付いた笑み以上に不気味に映る。

「ははっ、よく言うじゃないか。夢の世界で死ねば現実の世界に帰れるって話。君にとって、ここは夢なんだろう?」
 彼はアリスの話を元手に皮肉った。あの晩まで彼女は考えないようにしていたけれども、薄々は感付いていた。気づかない方がどうかしている。

アリスは自分がいる『現実』をやっと認めた。例え夢であろうとも誰も傷つけたくないからだった。
「……いいえ。夢にしてはリアルすぎるし、現実にしてはおかしすぎる。なら死んでも帰れる保障はないわ」
 月光に濡れた剣の先を揺らして、騎士は酷薄な笑みを浮かべる。

「死ぬのか、留まるか。ちゃんと答えてくれないとペーターさんみたいに付きまとっちゃうぜ?」
「それは嫌。ペーターだけでもウザいわ」
 彼は苛立ちを隠さず、眉をしかめた。
「……それってペーターさんなら良い、って言う風にも聞き取れなくもないぜ?」
「……あなたたちって何気に張り合うわよね」
 仮面のない騎士はもう笑わなかった。

a_lowless_trial

「エース、お願い、分かって。私は帰るのが正しいと思うの。ここにいるのは逃げでしかないから」
真っ直ぐ見つめてくる碧い瞳を彼は受け止めきれず、紅い目を背けた。
「――正しくなければいけないのか? どうして逃げちゃいけないんだ?」

「……え?」
 思いもよらない反撃に、彼女は言葉を失った。
「なぜ正しくないものがあるんだ? 世界は正しいもののためにあるって? 誰が正しいとかを決めるんだ?」
 世の理不尽を糾弾するようにエースは声を搾り出した。

「それは……」
 彼女はもちろんのこと、そんな答えは誰も持ち合わせてはいない。エースの望むような答えは誰も与えてあげられない。

「君がここにいるのは間違いなんかじゃない。一つの選択だ」
 
今の彼の言葉は嘘偽りのない、本当の気持ちが籠もっていた。仮面で隠してきた本心が剥き出しになって曝されているよう。

「本当は正解なんてどこにもない。上手いやり方もあれば下手なやり方もある。けれど自分が打てる手なんて限られてるし、後になってみないとそれで本当に良かったかなんて分からない。人に教えられた答えなんて正しいと分かっていても納得できないだろう? 自分が出す答えだからこそ自分にとって意味がある。君は急いで無理矢理な答えを出そうとしてる

相手の言葉全てが正しいなどとはアリスも思わなかったが、間違いを指摘することもできなかった。

「……私がそれ以外の答えを出すと思うの?」
「君次第で答えはいくつでも出せる」
 剣を取り落とすまいと柄が更に強く握られる。
「でも俺は君がいないのなら、死にはしないけど……もっと狂うよ。俺にとっての大切なもの、また壊させたいの?」

アリスは一歩踏み出そうとした。途端、心臓に剣先が当てられた。
「動くな」
 
この城の誰もが聞いたことのない程、切羽詰ったような声。

「アリス。帰らないって言ってくれ」
 
その声は震えて掠れている。彼女を宥めたときの余裕はどこかに行ってしまっていた。

 「……ここにいるって言ってほしい」
 
子供のような縋る目で刃を突きつける。アリスの知らない目をした、よく知るはずの男がそこにいた。
「君を――殺したくない」

それは本心だろう。けれど、この男がやると言ったら本当にやる。それが役割だとでも言うかのように望む望まざるに関わらず、それは行われる。彼は自分の本心でさえ『義務』の前に敗北してきたのだから。

その時はアイスピックで氷を砕くようにきっと本当に心を砕いて、想い人を裂くのだろう。ただの一粒の涙も見せることなく――悲しむのだろう。

「君がどうしても帰りたいと言うなら、俺が全部潰すよ」
 抑揚なく言葉が綴られる分、彼の本気を窺える。これが脅しなら、もっと上手いやり方もあったはずである。

「君がお姉さんのために帰りたいと言うなら、君のお姉さんを殺す。君が世界を恋しく思うなら、世界を潰す」
 制止の言葉も届かず、紡がれる呪いの言葉は後から後から流れ出す涙のように止まらない。

「それでも君が帰ったら、俺はきっと君を追いかけて殺すよ。そして君のいない世界も全部潰す。君がいなければ俺は狂ってしまう」
 
能面のようなエースは無機質に愛の言葉を紡ぎ続ける。それは愛憎劇さながらの狂気だった。

「もう狂っているわ……あなた」
 
アリスの目には涙が浮かんでいた。喜悦か、絶望か、哀切か。本人以外では涙の意味など定かではない。ただ一つ言えるのは彼女のためにエースが狂ってしまったこと。

アリスは真っ向から赤い瞳と対峙し、告げた。
「時間を頂戴。……もう一度真剣に答えを考えてみる。答えを出すまではここにいる。必ず結論を出してから私は行動するわ。約束する」

エースはその言葉を聞き届けると、音もなく剣を下ろし、鞘に納めた。その間、ただの一度もアリスから視線を外すことはなかった。
「――答えが出たら一番最初に俺に教えて。ペーターさんでもなく陛下でもなく、この俺に」
 アリスは静かに承諾の意を表し、無音の槌が振り下ろされた。

気付けばアリスは顔面蒼白なペーター=ホワイトに抱き締められていた。いつからいたのか、体はいい感じに締まっていた。骨がギシギシする程に。

時間帯はいつの間にやら切り替わっており、暖かな陽光がもれ入ってきていた。闇の法廷はすっかり影を潜め、今は全てを白日の元に晒す光に満ちている。まるで夢から覚めたように世界は明るさを取り戻していた。

アリスが目で探しても赤いコートの姿は既になかった。それでも彼女の答えを聞くまでは城の中にいるはずだ。

「大丈夫ですか!! 僕のアリス!!」
 
のっけから、この調子で抱きつかれているようだ。無反応なのをいいことに、あちこちベタベタ触って確認している。
「どこも怪我はありませんか? 何かされましたか? エース君に殺されかけた、と部下から聞きました!」

殺されかけたという実感は、アリスにはないに等しかった。あれはむしろ愛の告白のようにさえ感じていた。ただ思いのたけをぶつけるようなシンプルな感情だった。

――相手のことを考える余裕がない情熱そのもの。アリスは戸惑っている。受け入れるべきか、否か。彼女の頭は考えることを拒否しているのか、麻痺していて、空返事しか返せない。

「……別に。何でもないわ。……どうでもいい」
なぜ庇うんです?! あなたを殺そうとする男なんか庇う義理はありませんよ」

確かに庇う義理はない。でも死んでほしいとも彼女は思っていない。あの男に何をされても不思議と嫌えないのだ。

「安心して下さい。あの男はもう二度とあなたに近づけさせません。追っ手も差し向けてはありますが、あまり当てになりませんからね。居場所が割れたら、僕が直に仕留めに行きます」

瞬間、窓から鳥の羽ばたきが起こり、アリスの定まっていなかった焦点がペーターの目と合った。
「……え? エースいないの?」
 
『仕留める』という言葉を、彼女は綺麗にスルーした。

答えを待つのではなかったのか。アリスの中で疑問がとぐろを巻いていく。

「ええ。あの男は昔から逃げ足だけは速いのです。危険を察知して、一足先に城を出て行方を眩ましてしまいまして……そのまま二度と帰って来なければいいんですが
 行方を眩ましたと言うよりは遭難しているんだろう。多分後を追う人も遭難してしまう。

逃げた訳ではないのだろう。……だが理解できなかった。答えを聞きたくないのだろうか。

心ここにあらずの様子の想い人に、些かペーターは不貞腐れた。
「ねえ、エース君のどこがいいんですか?  あんなのを選ぶくらいなら僕を選んで下さい、この僕を。富も権力もあって頭脳明晰、おまけにあなた好みの容姿端麗。これ以上ないくらいのお買い得物件だと思いません?

アリスは目の前の美形をとくと眺め、深々と溜息を吐いた。確かに顔に関しては彼女の好みど真ん中直球(ストレート)ではあった。

「お買い得とか自分で言わないの……。あとストーカー癖とウサギ耳がなければ、もっと良かったのにね
 あんまりの必死さにアリスから笑いがもれた。
「お買い得は事実ですから。エース君も富と権力はありますけど馬鹿ですよ。顔は分かりませんが……」
「……あの人ふざけちゃいるけど馬鹿ではないわ」

しかし騎士の同僚は、その評価を斬って捨てた。
いいえ、正真正銘の大馬鹿者です。役を捨てる希望を持っていること自体、浅はかだと言っているんです」

そして吐き捨てるように早口で言った。
「無理なことなど、さっさと諦めてしまえば良いのに……」
 アリスは直感した。これは多分妬みだ。絶望に近い希望にすがり続けるエースへの苛立ち。

「そうね。あなたも好い加減に私を諦めれば良いのに」
「それは無理です。僕にはあなただけですから。で、エース君を選ぶんですか?」
 唐突に話題を戻されて、ややアリスはうろたえた。
「べ、別にエースと付き合うつもりはないわ」

「よく一緒にいるのを見ますよ? エース君はあなたを僕から遠ざけようとしているようにも見えますねえ。……ああ、何かエース君を早く殺したくなってきました
「……そんなんじゃないのよ」
 心底困りきったような表情を浮かべたアリスへ、ふとペーターが優しい目つきになる。彼女はこの目が嫌いではなかった。真剣に自分を想う目が嬉しくないはずがない。

ペーターの優しい唇がアリスの額に触れた。いやらしさのない、親愛の証のように――。

アリス。僕はあなたさえいてくれれば何も要りません。もしエース君に捕まってしまったら迷わず僕を呼んで下さいね。駆けつけますから」
「……あんたが来ても余計に事態がこんがらがるだけだと思うわ」
 それから本当にエースは城へ帰って来なかった。

NEXT

●あとがき

挿絵1は カラーだと不気味さが出ないため、あえてモノクローム風に。でも赤は使うよ!

挿絵2はパス多用して描きました。正確には描けるがパース自体が狂ってるので大変なことになってます。作業時間が短縮することもありますが、チマチマチマチマ作業するのでシンドいですー。