答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~
第四章 それぞれの決着
第六節 血色の悪夢
アリスを捕まえた男が彼女の前から立ち去り、闇と静寂が支配していた。恐らくブラッドと接触を計っているのであろう。どれぐらいの時間が経ったのか、アリスには既に時間の感覚がない。
「……ま、元々時間なんて、あってないようなものだけど」
アリスが一人でそう呟いたとき、扉の開く音と蝋燭の明かりが入ってきた。ついでに能天気な声も入ってきた。
「あれー、何でアリスがここにいるんだ? 何やってんの? 俺も混ぜてよ」
聞き慣れた声に反応して、振り向こうとしたアリスの笑顔が固まった。
仮面舞踏会で使うような仮面を付け、襤褸のローブをまとい、赤い斑点を付けた不審人物が目の前に突っ立っていたのだ。例え名を呼ばれていても、とっさには反応できなかった。
「?! 誰?!」
「え? 分からない? 俺だよ俺」
俺々詐欺のような会話である。不審者が邪魔臭そうにマスケラを外す。下から現れた顔に彼女は愕然とした。
「え、ええええええええエース……」
彼が発するオーラの黒さにどもってしまう。
「駄目じゃないか。俺の誘いは忙しいからと断ったくせに別の男の誘いは受けるなんて、どういうこと? 説明してくれないか?」
しゃがみ込んだエースと目を合わさないように逸らすのがアリスの精一杯だった。有無を言わさない爽やかな笑みに、彼女の背筋が凍りつく。
「せっかく今度こそ仕事をしようと意気込んできたら、まさか君が捕まってるだなんて。仕事どころじゃなくなっちゃたよ。責任、取ってくれよな?」
不意に慌しい足音が響いてきた。どんどん近づいてくる。エースは焦る様子も逃げる素振りも見せない。
とうとう男が現れた。騎士に拳銃を向けている。
「何だお前は! 帽子屋の仲間か?!」
「え? そう見えるの? だったらハッズレー。俺は時計塔の騎士だよ」
銃口を向けられているとは思えない程エースは明るかった。男の顔が見る間にしかめられる。
「三月ウサギを捕らえた時計屋の手下か……! 何でこんなところにいんだよ!」
「お。意外と情報通。……アリスのピンチに駆けつける役だからさ」
「頭おかしいんじゃねえの! 死ね!」
アリスが声を出す前に男は引鉄を弾いた。いつの間に抜刀したのか、白刃が銃弾を弾いていた。更にエースが一気に間合いを詰め、そのまま敵の腹を切り裂き、激しくのたうち回った男は絶命した。凄惨な場面とつんと濃い血臭にアリスは顔を背ける。
血糊を振り払ってから、エースは剣を収めた。その横顔には一片の慈悲も見られない。冷たい殺意を宿した残酷な深紅の目がゆっくりとアリスに向けられた。彼女は一瞬呼吸ができなくなる程、胸を締めつけられた気がした。
「エース……」
「だから言っただろう? 帽子屋さんと仲良くしてると、こーゆーことに巻き込まれちゃうって」
騎士はアリスに向かってウインクした。そして、もう一人の敵に気付くことに遅れた。
「動くな」
アリスの米神に銃口が押し当てられた。この地下倉庫らしき場所の入口は一つではなかった。扉の近くでもう一人が息を潜めていたらしい。エースの隙をつき、アリスを捕らえた。
「ご、ごめんねエース……」
カタカタと勝手に鳴る歯をこらえて、彼女は謝った。喉が引き攣って嗚咽がもれ始める。
「何で君が謝るの? 油断したのは俺だろう。それとも他の男の誘いに乗ったことを謝っているのかな?」
このまま引き金を絞られたら、きっと人質の頭はトマトのように弾けてしまう。
「彼女に傷の一つでも付けたら――俺、何をするか自分でも分からないよ?」
乾いた音が二発続けて放たれた。的は微動だにせず、奥歯を噛み締めるような呻きを漏らした。
「お前は派手に殺してやるよ。見せしめとしてな……」
わざと急所を外しつつ関節を撃ち抜き、床には赤いコートよりもなお深い真紅が広がっていく。騎士は不敵な笑みを崩さないが、脂汗が浮き出ている。
「騎士としては姫のために死ねたら本望かもしれないな。意味がない死よりはある方がまだマシかもね」
その声は掠れ、どんどん低く小さくなっていく。瞳も昏く、焦点が合っていない。
――存在ガ消エテシマウ。
突然自覚した。目の前で本当に、また人が死のうとしていることに。よりにもよって、また自分のせいで――。
獣の咆哮と銃声が聞こえる。
「やだっっ! 何で?! 何で反撃しないのよエース!!」
半狂乱になって泣き叫ぶ少女の声も空しく、更に二発の銃声が轟き、目の前でエースが倒れた。
「エースーーーーーーッッッッ! やあああああああ!」
「誰か……誰か助けて……エースを助けてえええ!」
「やれやれ……僕って何てお人好しなウサギなんでしょう」
不意に氷が発したような冷たい声が響いた。白くて長い耳、赤のギンガムチェックの服、見紛うかたなきハートの城の宰相である。赤い瞳には一片の慈悲もない。
アリスを押さえつけていた腕が力を失った。だが彼女も共に崩れ落ち、エプロンドレスに紅い染みが広がった。足が凍りついたようにアリスは動けずにいた。
「ペーター……」
見る見る内に目元が下がり、いつものウサギに戻った。
「ああ、お怪我はありませんか?!」
アリスをゆっくりと立たせて、ぺたぺた触って確認し、再び抱きついてきた。
「……ないですね! ああ、あなたが無事で良かった! アリスアリスアリス、愛しています!!」
アリスは力なくペーターを押し戻し、まるで雲の上にでも立っているかのようにおぼつかない足取りで一歩一歩踏み出す。
「エース……」
仰向けに倒れた男の元へ行こうとし、アリスは足だけでなく、視界がぐらつくのを感じていた。そして不意に闇が訪れた。
アリスが再び瞼を開けると、そこは一面の赤だった。その色の源泉が目の前で倒れている人であることが見てとれた。ボロボロの外套をまとってはいるが、彼は紛れもなくハートの騎士その人だった。
元々紅いコートは更に色の深みが増して、石榴のような色合いになっている。体の至る所から夥しい量の血液が流れ、彼の口元からも幾筋も流れている。瞳は固く閉じられたまま。アリスは彼の流した血の海に横たわっていたのだ。
「あ……や、嫌……誰か、誰かあっ!」
叫びを上げたところで初めてそこが帽子屋屋敷内でないことに気付く。エースと血の海以外、何も見えない闇の中である。
不意に長身の影が現れた。混乱を極め、彼女は反射的にその人物にすがりついた。
「ブラッド! どうしよう! エースが……助けて、エースを助けて」
だが半狂乱のアリスとは対照的な声が返ってきた。
「アリス。帰ろう」
彼女の思考が真っ白に塗り潰された。倒れたエースを見ても、まるで関心がないような無表情でブラッドは少女の腕を引く。
「罪は、償わなくては」
アリスはやっと目の前の人物に違和感を覚え、戦慄した。気怠げな雰囲気を一切持たず、奇天烈な格好もしていない。また剣呑な目つきも無意味な迫力もなく、穏やかでさえある。
「あなたは……先生?」
帽子屋屋敷の主人ではなく、彼と同じ顔をした先生であり、かつての恋人だった人だ。
「君は××××を殺した罪を償わなくてはならない」
まるで断罪をするかのような、厳かな口調で告げる。
アリスは急に納得した。どうしてそこまでして帰らなければならないと思ったのか。人殺しの罪に耐えかねて、この世界に逃げてきたのだ。まるで夢のような幸せな世界に――。
「さあ帰るんだ。君を迎えに来た。罪を償わせるために」
切望していたその手を、ハートの国を訪れた直後のアリスならば喜んで取ったであろう。だが目の前に差し出された手を、今の彼女は取らなかった。
「君が罪を償うチャンスは、これが最後かもしれないんだぞ」
あくまでも静かに諭すように男は続けるが、言葉はどこまでも重い。アリスの思考はひどく渦巻いていた。
今帰ってしまったら、エースはどうなるのだろう。放っておけば死んでしまうかもしれない。
エースから逃げれば、それはただの幸せなユメに終わっていただろう。都合のいいときだけ浸って、悪くなれば切り捨てる。けれども、ここも一つの世界であった。どちらの世界にも悲しみがあった。
また大切な人の死から逃げるのか。泥のようにこごり、痺れたような頭が覚醒した。
――もう逃げる訳にはいかない。
「罪はなくならないんだ。例え君が贖おうとも――」
震える唇が言葉を紡ぎ出す。
「確かに罪は罪だわ。罰も必要だと思う。……実際ここに来るまでは誰かに罰して欲しいと思ってた。元の世界に帰ったら、あなたと私の家族にきっと私は償いをする」
大粒の涙が滑らかな頬を伝い落ちる。後から後から流れ出て止まらない。
「けれど私が本当に償いたい相手はもう、いない。私が何をしたって戻らない。あなたの心も埋められないわ」
「君は逃げているつもりかもしれないが逃れえるものではない。罰は誰が与えなくても自分が科すものなのだから」
「私は自分の人生を歩む。決して悔いのないように。あの人が望むことは私の幸せだったから。自分のことはときどき思い出してくれればいいと言ってくれたから」
そっと肩の下に手を入れて、エースを抱き起こす。生暖かさと肌が濡れる感触に、アリスは泣き崩れそうな気持ちを必死に抑えた。
「今この人を置いて勝手に戻ったら、私はまた罪を犯すことになる。どちらも罪なら私はエースを選ぶわ。エースがいるなら、どんな罰でも受けられる」
男はふ、と瞳に悲しみを漂わせる。
「彼は不運を招く騎士だ。君を不幸にするだろう。また君も彼を不幸にするだろう」
「私が、エースを不幸に?」
予想だにしない言葉を受けて、アリスは繰り返した。
「そうだ。その男は君が来るまで我慢できていたものが我慢できなくなった。君が彼を変えてしまった。君と出会わなければ、彼は悩まなくても良かったんだ。まだ彼を苦しませたい?」
他でもない自分が好きな人を苦しめる。誰にとっても、それは耐え難いこと。
アリスは抱える手と腹に力を籠め、震える唇で掠れた声を紡いだ。
「苦しめたい訳じゃない」
「……確かに私が不幸にしてしまうかもしれない。だとしても絶対に私からは離れないわ。エースは不幸に負けたりしない。不幸を不幸にしないから彼は強いのよ。私はそんな彼が好きなの」
「そちらの世界で罰を受ける。それが君の答えか」
かけがえのない人を抱き締めた。時計の音が間近に響く。
「これが元の世界に帰れる最後のチャンスだとしても私は帰らない」
「絶対に帰らない」
なぜかアリスは一瞬だけ先生が笑ったような気がした。
「償いは本来咎に関わる人々が生きるためにすることだ。決して自分を殺すためにするべきではないよ。君が自分のために生きることを選んでくれて良かったよ、アリス……」
かつての恋人の名を呼ぼうとし、口を開けた途端、白い光が頭に閃いた。何かの衝撃で声を発することができなかった。次いで何度も頭を揺らされている感覚が続き、その視界がぐにゃりと歪んだ。目を開けていられず、強く目を瞑った。
「……ス、アーリース、アリス、大丈夫?」
のん気な声でぺちぺちと頬を叩かれている感触が彼女を覚醒させていく。目の前にはエースの心配そうな顔があった。胸に詰まって、アリスは思わず彼の首に抱きついた。
「アレ、どうしたの? 怖かった?」
優しく背中を撫でてくれ、髪を梳いて慰めてくれる。世界は明るく、屋敷の客室であることが知れる。いつの間にやら運び込まれたらしい。
「アリスーーーーーー!」
彼女の背中に何かが抱きついた。サンドイッチ状態で正直苦しいのだが気にしなかった。
「げ。ペーターさんまで抱きついてこないでよー。いいところなんだから邪魔しないでくれる?」
やや本気で嫌そうな声がアリスの耳元で響いた。
――生きている。ただそれだけで涙は止めどなく流れ落ちた。
時間を少しだけ遡る。アリスが気を失った後、満身創痍のエースが目を開けたとき、ペーターに見下ろされていた。ボケボケした様子でエースは声を発した。
「……あれ? いたの、ペーターさん」
同僚は如何にも呆れた様子で深い溜息を吐き、半眼で睨め付ける。
「目覚めて第一声がそれとは、あなた一体どういう教育受けてきたんですか……」
「……何でここにいるの?」
「熊を追いかけてたら、ここに来ました。あなた、熊に追われてたと聞きましたので。ちなみに熊は帰しました」
「……説得したの?」
その言葉の意味を理解すると、不機嫌な様子でウサギは顔を背けた。
「生憎と熊の言葉は僕に理解できません。だから発砲しました」
「…………何で俺のこと助けたの?」
心底理解できないという顔でエースは尋ねた。日頃刺客を差し向けてくる相手が自分を助けるとは露とも思わない。
白ウサギは半ば自棄っぱちのように答えた。本当は答えるのすら億劫で嫌だと伝えるように。
「……僕の大事な人が泣くから仕方なくですよ。次があったら間違いなく僕が君の頭を撃ち抜きます」
白ウサギは怒ると言うよりも泣きそうな、複雑な顔をしていた。
「……ありがとう、ペーターさん。……まあ死なないと思うけど」
「それは残念です」
「――大丈夫、次はないよ。アリスを知ってる俺が消えてしまう」
そう言ったエースは穏やかに笑んでいた。胡散臭い雲が晴れたときの天穹のように――迷いのない瞳をしていた。
「消えるのは怖くないけど――アリス、君が俺のことを忘れるのは嫌だから」
長い指が眠る少女の唇へ、エースは愛しげに口付けた。