答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~

第三章 断罪の刃

第二節 アリスの幸せ

赤いコートを前方に捉え、アリスは小さく舌打ちした。進行方向でもあったため、露骨に回れ右をする訳にもいかず、仕方なく突き進むことにした。

爽やかな笑顔が彼女を出迎えた。
「やっと見つけた。アリス、これから一緒に散歩に行こうぜ」
「仕事があるから、また今度ね」
 口元で微笑んで、何度目かのやんわりとした拒否をする。だが自分から埋め合わせる気など更々ないと言わんばかりに、アリスは足を止めることなく騎士の脇を通りすぎようとした。

エースは彼女の手首を掴んで、歩みを止めさせた。力は強くないが、わざわざ振り解くのもアリスにはとまどわれた。嫌われたい訳ではないのだから。

「また? 仕事ばっかりしてて疲れない? 偶には生き抜きも必要だぜ?」
「本当にごめんね」
「……俺さ、最近は一人よりも君と旅をしたいと思うんだ。旅は楽しいぜ」
「また今度」
「…………ふーん、じゃあまた今度、ね」
 エースは意味深な間をはさんで、返事をして去った。

アリスは知らず胸元をきつく握り締めていた。
「心が痛いのは今だけよ、今だけ。罪悪感なんて感じることはないはず……」
 同情されたくなくて、恋愛もしたくなくて、距離を置こうとしているだけだ。

持ち主の意向を無視して、指先が唇の形を確かめるようになぞった。触れられた感触がまだ鮮明に思い出されて、アリスは赤面した。恥ずかしいところを見られていないか、周囲を見回す。そんな自分に気づいて、また自己嫌悪に陥る。

「私って馬鹿みたい。ううん、学習能力のない馬鹿そのもの」
 エースとアリスは親しくなりすぎた。接吻を許してしまう程の距離を警戒もせず許した。親愛のキスならば頬で十分だろうに、それ以上の意味を持って口に何度か受けてしまった。

恋人でもない相手とそんな口付けをするなんて、とんでもないタラシである。これ以上近づけば次は何をされるか分からない。

鉛のように重い心中を空気に曝したところで心が軽くなる訳でもない。重い足取りのままアリスは仕事に戻った。

茜色の空を見上げながら、女王とアリスの優雅なお茶会は続いてゆく。
「お前エースと何かあったのだろう?」
 
アリスは盛大に紅茶を噴出した。夕陽に劣らず頬が赤いのはきっと夕陽のせいだけではないのだろう。

「な?! 何を藪から棒に?!」
 
あまりにも分かりやすく動揺するものだから、女王は些かつまらなそうに口元を結んだ。お気に入りの少女の口元を丁寧に拭ってやる。
「あまりもったいないことをしないでおくれ。お前とのお茶会のために、わざわざ取り寄せた貴重な茶葉なのだからね。エースにばかり飲まれては堪らない」

アリスは謝った。女王は麗しい顔をしかめたまま、赤い夕陽を見つめた。今の時間帯が夕方でなかったら、傍仕えの首がいくつか飛んでいたことだろう。

tea_party

「わらわの情報網を甘く見るなと言いたいところだが、既に城中の噂となっておるぞ。からかわれたくないのなら、もっと忍べ」
 赤面するアリスを見て、女王は複雑な面持ちになる。こんなに可愛らしい顔を見せてくれるのはもちろん嬉しいのだろう。しかしそんな顔をさせる原因は、あの忌々しい部下なのである。

ビバルディは唇を噛み締めた。まるでお気に入りの玩具を取られた少女のような顔をしている。
「エースとばかり遊んでいないで、もっとわらわに会いに来ておくれ。でないと首を刎ねてしまうぞ」
「次の夕方! 絶対行くから!!」
 
ハートの女王様は殺ると言ったら殺る。この約束を守れなければ、アリスはきっと次の夕方を拝めない。

従順なアリスに気を良くした女王の目には嗜虐の光が宿り、口には紅色の三日月が形作られる。
「フフフ、可愛い子。エースをもっと困らせてやれ。あやつの困る姿など滅多に見られるものではない」
「エースが困っている?」

長い付き合いだからこそ嫌でも分かることがあるのだろう。彼女のような暴君にとっては部下の機微など分かったところで何の益体にもならないのだろうが。

「ああ。困ると言うより戸惑っておると言う方が正しいか。あやつも大切なものが少ないからな」
「私がエースの大切……特別? ないない、そんな訳ないじゃない。大体エースは……」
「それ以上は止めておくれ。首を刎ねたくなる。あーあー、やってられん。……犬も食わんぞ。勝手にしろ」
 そう言うとビバルディは紅茶をがばがばと自棄飲みし始めた。


「……ペーターさん、人はどうすれば幸せになれるかな」
 質問を投げられた方は軽く舌打ちした。いつ何時も、どうしてもうちょっとタイミングを考えて話しかけないのだろうとペーター=ホワイトは思った。例えエースが哲学的な質問をしようが、そんな些細な問題はどうでも良かった。

ハートの城の宰相は今、部下の始末をつけるのに忙しかった。できることならば目の前の男も片付けてしまいたかったが、悪態を吐くまでに留めておいた。
人間辞めれば簡単に手に入ると思いますよ。邪魔ですから、とっとと消えて下さい」

「そーだよねえ……。人間のままで幸せになるって難しいよね」
 冷酷なウサギの嫌味はこの男の神経にかすりもしない。ペーターは心のオアシスを想った。
「僕はアリスがいるから幸せです。ああ、でもアリス以外は皆滅んでくれると、もっと良いんですが……特にあなたです、エース君

若干の希望を含んだ半眼で見やれば、騎士は既に背を向けていた。
「はああ……。万年発情期のペーターさんの幸せなんて、あっても邪魔なだけだし……
「何ですか、邪魔って!」
 
小さくなっていく後姿に罵声を浴びせ、宰相は再び職務に戻った。


「アリス、今日も可愛いですねっ。お仕着せも似合っていますが、僕の希望を言えば、そんな下々の服は着てほしくありません」
「ほっといて。仕事の邪魔」

ペーターは同僚と遭遇した次の時間帯にはアリスを訪ねていた。そして彼が訪ねるときは決まって、彼女は仕事の最中であった。いつ何時もどうして頻繁に自分を構いに来るのか、彼女には不思議でならなかった。実のところ宰相職とはひどく暇なのではないかと疑っていた。

alice's happiness

「アリス、愛していますっ。僕はあなたが触れる物にまで嫉妬を覚えますっ」
「ハイハイ。モップになったらボロボロになるまで扱き使ってあげる」
 
モップを持つ手を休めずに、彼女は上司の話に耳半分を傾けていた。アリス馬鹿なウサギの戯言にあまり身を入れて聞くと疲れるからだ。

白ウサギのペーター=ホワイトは、アリス以外は大嫌いという解りやすい精神構造の持ち主である。言わば、アリスを軸に世界が回っているような男である。但し想い人の意思はあんまり尊重されていないところが当人にとっては頭の痛い問題である。

専らお腹の中は真っ黒だという噂が立っているが純粋なだけなのだろう。悪意は悪意のまま包み隠さずに表に出す。属性はエスだが、白である。

対する騎士様は最初から真っ黒である。彼も悪意を隠さない男だが、表面上は爽やかなので分かりにくくなっている。多分ワンダーワールド中で爽やかに最も毒を吐く男である。ちなみに属性はどエスである。

エースといい、ペーターといい、ハートの城の重鎮共は揃いも揃って暇人である。好い加減避けたり退けたりするのにも、アリスに思いつくネタが尽きてきた。

床の汚れと睨み合うのにも飽きた彼女はモップを動かす手を止めた。痺れた手を解すように軽く振りながら騎士の同僚に尋ねた。あくまで世間話を装って、特に気にしていない風に見せる。

「ね。どうして最近のエースは城から出ないのかしら?」
 エースという単語が出た時点で端正な顔に深い皺が刻まれる。足の裏をダンダンと強く踏み鳴らす、ウサギ特有のスタンピングを始めた。実に分かりやすい反応である。

「僕にエース君の話題なんか振らないで下さいよ。いくらでも言いたいことが後から後から湧いて出てくるんですから。あなたに聞かせたくありません……。それに今のエース君、いつにも増しておかしいので、あなたは近づいちゃ駄目ですよ?」
 ペーターの大真面目な言にアリスは目を瞬かせた。指のストレッチに力が入りすぎて、関節を鳴らしてしまった。

「おかしい? どこが?」
「どこもかしこもですよ!
 あのエース君が何か考えごとしてるとか、こともあろうに僕に相談を持ちかけてきたんですよ? もう天変地異の前触れか……アリスが帰ってしまうかもしれないと思って、慌ててあなたのところに馳せ参じた訳です」

腰に抱きつかれて、潤んだ目で見上げられても、彼女はもう動じなかった。慣れた手つきで押し返す。
「暇なのね」
「何でそーなるんですかっっ!」

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●あとがき

隠しておきたいことほど、実しやかに囁かれてしまうもの。これは喧嘩というより、アリスが一方的に避けてるだけですが。

ビバルディを初めてちゃんと描いた気がします。服が面倒臭いなあ、もう!