答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~
第四章 それぞれの決着
第七節 後悔の味
アリスの涙も止まり、一通り落ち着いた。
「……ねえエース? あなた撃たれたんじゃないの?」
「あーー……あはは、当てが外れちゃって」
決まり悪そうに騎士が笑う。
「死んだ振りして、隙を作ろうと思ったんだけど……」
後頭部をさすって、出来たてのホヤホヤのたんこぶを確認し、彼は顔をしかめた。なぜ立っていられるのか、不思議なくらいに大怪我なのだがエースは立っていた。
「何でそんなにタフなんでしょうかね。本当に死ねばいいのに……」
騎士の同僚が残念そうに呟いた。
勢いよく扉が開き、ディーとダムが転がり込んできた。
「お姉さん! 起きたっ?! 生きてるっ?! 何にもされてないっ?!」
「何の心配をしてるのよ……」
ぎゅうう、と涙目でしがみ付いて来る双子を見て、アリスは微笑んだ。本気で心配しているのだろう。ぺたぺたとあらゆる所を確認し、小さな手がスカートの裾を掴んだところで、さすがに止めさせた。ペーターが彼らを引き剥がそうと躍起になっている。
「何で城のウサギまでいるんだよ」
「迷子の騎士だけでも厄介なのに。どうしてウサギは皆僕らの邪魔をするんだ!」
扉の脇にはブラッド=デュプレが控えていた。非常に面白くなさそうな顔をしている。
「……闖入者に先を越されたな。とっとと追い出せば良かった」
舌打ちした彼の目が、アリスの目とかち合った。夢の面影を思い出し、彼女は睫を伏せた。
「…………何だ、お嬢さん。私の顔に何か付いていたか?」
「ううん、何でもないわ」
「ところでアリス、××××などされてませんか! 僕のアリス!」
「誰がお前のだ」
アリスは罵声と拳で返答した。
「お姉さん、格好良いー」
構わずウサギは彼女にすがる。
「僕のアリスを拉致した上に監禁して、挙句に××××だなんて……万死に値します。滅べ」
見る間に形を変えた元懐中時計を握り締めるペーターを、アリスは押さえる。弾丸による会話は危なすぎる。
「拉致はされたけど監禁とかされてないから! 勝手に妄想を広げないで」
珍しくブラッドが本当に申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「スパイがいることは分かっていたんだが、泳がせておけば何か掴めると思ったのだ……。巻き込んでしまって……済まなかった」
アリスは最初から怒ってはいなかった。友人を彼なりに心配してくれたのだから。
「ブラッド、あなたは悪くないわ……。私が自分からここへ来てるんだもの。マフィアの屋敷に入り浸ってるのに、何の事件にも巻き込まれない方がどうかしてるのよ」
ペーターは彼女の脇で歯噛みした。ブラッド=デュプレは全てを知っている上で彼女を利用したのだと気付いているからである。アリス狂いのウサギにとって当然見すごせるようなことではなかった。
彼は忠実なウサギである。アリスが許すと言うのなら彼女の前で非難する訳にもいかなかった。彼にできることは彼女を二度と帽子屋屋敷に行かせないように精々計らうことぐらいであろう。
そんなペーターの歯痒そうな顔が面白いらしく、帽子屋はにやにやと見つめている。
「ありがとう、アリス。君は得難い友人だ。……しかし残念だ」
一度言葉を切って、口角を更に持ち上げた。
「あと少しでお嬢さんをうちの子にできたのに」
「私、子供じゃないわ。あと言っておくけど私は人参料理ばかり出されるところには住みたくないの」
ブラッドの揶揄をアリスが軽く往なすと、ペーターは間髪入れず叫んだ。
「アリスはうちの子です! いや、僕の子です!」
「黙れ変態」
重く減り込む音がして、ペーターの左頬に見事な右ストレートが決まった。
アリスたっての希望もあり、体に異常がないことが分かり次第、すぐに出発することになった。
門前では屋敷の主を始め、エリオット、ディーとダム、その他の使用人たちまでもが見送りに来ていた。みんな一様に寂しそうな顔をしている。アリスはほんの少しの後悔と嬉しさが湧いて、また来ることを心に決めた。
「もう帰っちゃうの、お姉さん?」
「あとちょっとだけいてよ……」
双子が左右から羽交い絞めにするように抱きついた。それだけ見ると歳相応の子供に見えてしまうのが不思議である。
「もう十分独占したろ? そろそろアリスを返してくれよ」
エースが門番たちをべりっと引き剥がした。アルカイックスマイルを維持しているものの目が笑っていない。
「また来いよな。いつでも人参料理を用意して待ってるからさ」
上機嫌なエリオットの失言に、また来ようという気持ちが萎んだ。当分の間、彼女はオレンジ色など見たくもなかった。アリスが返事の代わりに耳を引っ張った。
「いってえええええええ! 何で引っ張るんだよ?!」
「ごめんなさい。あんまり可愛いことを言うから引っ張りたくなったの」
耳をさするウサギへ意地悪に笑いかける。
「お嬢さん、ハートの城に飽きたら、いつでもこちらへ来ると良い。歓迎するよ」
別れ際にはいつも冗談めかして、屋敷の主人にそんなことを言われる。客人は飽きたらね、と返事をする。恒例の儀式のようなものである。
「アリス、こんな紅茶狂の魔窟に住むなど止めて下さいね。紅茶であなたを売り渡すような男ですよ」
彼女がよく分からないという顔をしたので、ペーターが説明を始めた。
「それがですね……」
長い耳が忙しなく、ぴくぴくと動き出す。そのときのことを思い出して、苛ついているのだろう。
熊が乱入する前、二人が対峙したときにハートの城の宰相が用意した、交渉の切り札が炸裂した。赤いギンガムチェックの胸ポケットから上質なシルクの布袋が取り出されたのだった。
「女王陛下の紅茶です。最近陛下に貴重な紅茶を横取りされて、あなたは随分悔しがっていたそうじゃないですか」
「……フフ。それで取引が成立するとでも思っているのか? ここはマフィアの本拠地であるということを失念してはいないかね、ウサギ君」
しかしその視線はペーターの手元から離れようとはしない。警戒こそしているものの興味の度合いは宰相に筒抜けであった。宰相は鼻を鳴らして冷笑する。
「僕を殺して奪うつもりですか。別に構いませんよ」
「それも考えたが……やはり止めておこう。まだ時期ではないし……」
布に包まれた茶葉を見つめ、紅茶狂は面白くなさそうに溜息を吐いた。
「何より貴重な茶葉が失われてしまっては元も子もない。血に濡れてしまった紅茶など飲めたものか」
そうして交渉は、当事者の与り知らぬところで速やかに成立したのだった。
ペーターが語り終えるとブラッドは決まり悪そうに咳払いをした。悪戯を暴露された子供のように顔をしかめる。
「わざわざ彼女に説明することもないだろう……」
もちろんアリスも良い顔をする訳がなく、矛先は暴露した方にまで及んだ。
「紅茶と私は等価とでも言いたいの? お二人さん」
「いいえ。女王と同じ紅茶狂ならあるいは、と思って持ちかけてみただけですよ。まさか本当に応じるとは思っていなかったのですが」
ややイライラした様子のブラッドが反論した。
「私は本気でアリスを側に置いておきたいと思っているぞ? ただ今回は勝つ見込みが薄いから、一旦は返すだけさ」
「一旦? いいえ、二度と渡しませんから」
「そうそう。アリスがどうしても来たいと言うなら、俺も護衛として付いて来るぜ?」
二人のナイトが姫の脇をガッチリと固めている。
「迷子お断り!」
「邪魔なんだよ! お邪魔騎士!」
双子はブーイングを浴びせかける。
「紅茶と天秤にかけたのは申し訳なかったが、君はどんな茶葉よりも貴重だよ、アリス=リデル」
彼は戦利品を満足そうに手の上で転がした。紅茶への期待に酔い痴れた顔で言われても、あまり説得力があるとは言い難い。
「また来るわ、ブラッド」
「危ない目に遭っても、また来てくれると言うのなら少しは期待してしまっても良いものかな、お嬢さん」
「何を期待しているの?」
「フフ、それは内緒にしておこう。さてお嬢さん、僅かばかりのお詫びだ。持って行きなさい」
いつの間に用意したのか、紙袋をアリスに手渡した。中には丁寧に包装された菓子が詰め込まれていた。無論、中身は全てオレンジ色だ。
アリスは性悪男の足を思いっきり踏みつけた。短い悲鳴が上がる。
「あら失礼。人参を食べすぎて、まだ足元がふらついているみたい」
可愛らしく舌を出して謝った。人参に辟易した客人に、わざわざ畳み掛けるように人参菓子の土産など用意させる男には、これぐらい可愛らしいお仕置きも必要だ。
城への帰り道、アリスはようやくエースに声をかけた。
「ずっと気になっていたんだけど……その格好、何?」
「ん、コレ? 変装。俺さ、本当はハートの騎士なんかじゃないんだ」
彼女は全く意味が分からないと答えた。エースは肩を竦めて説明しだした。ずんずんと前を歩いてゆくペーターは先ほどから言葉を発しない。普段からは考えられない程の驚くべき静けさを保っている。
「……俺の役は騎士だけど、本当の騎士じゃない」
「どういうこと?」
「……アリス、俺は何をしていても騎士だけど、仕えているのは女王じゃなくてユリウスなんだ」
「騎士が二君に仕えるの?」
「いや、俺は騎士を辞めたいんだ。誰も認めてくれないけどさ」
彼は同僚を見るが、相手はずっと進行方向を見たまま無視を決め込んでいる。不機嫌そうにぴくっと耳が時折動くだけである。
エースの格好を上から下まで眺め回して、アリスは率直な感想を述べた。
「まるで正体がばれて欲しいような格好なのね」
「ような、じゃなくてジャストなんだけど」
爽やかに開き直った。
「……あんたは騎士のくせに卑怯よ。悪いことしても自分は潔癖です、みたいな顔しちゃって」
「そう見えるだけさ。騎士は義務やら役目のために行動するから俺もそうしてるだけ。一片の私心もないように見せなくちゃ」
青い瞳がじっと彼を見つめる。すぐにヘラッとした笑いが返ってくる。
「でもエースは私心だらけよね」
「そこが問題なんだ。本当俺って騎士に向いてないよなあ」
「……あなたとペーターは似てるけど違うのね」
長い耳が一瞬だけ反応し、振り向いた顔が歪んだ。
「止めて下さいよ。冗談でも気持ち悪いです」
エースの方は大袈裟に驚いて見せた。
「ええ?! 似てる? どこが? 直さないとお仕舞いだ!」
「……大切なものが極端なまでに少ないわ。ああ、でもこの世界の人たちって、どこかみんな大事なものがなさそうな顔してるのよね」
「よね、って言われても俺にはさっぱり……」
「大切なものが少ないと、きっと迷いも少ないんでしょうね。あなたたちみたいに」
ペーターの瞳が揺らいで、ぽつりと呟いた。
「……アリス以外は要りませんから」
エースは青空に目を細めた。
「その代わり大切じゃないものには容赦ないよ。俺たちは守ると決めたもの以外にはどこまでも冷酷になれる」
「そうね。そこは羨ましくないわ」
「へええ。ちょっとでも羨ましかったんだ……」
エースは意外そうな顔をした。
「正確に言えば、その割り切りの良さに、よ」
そうして、しばらくは無言に歩き続けた。アリスは先の出来事を落ち着いて思い返していた。終わった直後は頭が痺れていたけれど、今はもっと考える余裕ができた。同時に抑えていたものが再び決壊する気配がした。
自分のした決断は間違っていないはずだった。どちらを選んでも後悔することは分かっていた。どこまでも自分勝手な己が許せない。
ハートの城が遥か遠方に見えてきたとき、アリスが足を止めた。他の二人が振り返れば、声もなく彼女が泣いていた。
「私の大事な人が死んでしまったの。私のせいで死んだの。私が殺した」
エースは隣まで戻って来て、肩を抱いた。ペーターは黙ってその様子を見ていた。
「アリス。人が死ぬのに大したきっかけなんかないんだよ。死期の近い人は何かの拍子に死んでしまう」
幼い子をあやすようにポンポンと背中を叩く。
「その人の死期が、たまたま君になってしまっただけだよ」
そして優しく抱き締めた。
「人がいつ死ぬかなんて誰にも分からないよ。いつ死んでもおかしくない、弱い生き物なんだから」
広い胸に顔を埋めるアリスの頭上で、エースはぼそりと低く呟いた。
「俺の死期が君だったらいいのに」