答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~

第三章 断罪の刃

第三節 持たざる者

闇の中でアリスは目を開けた。その頬は冷たく、枕をも濡らしていた。こぼれ落ちる涙を拭って、ここにいない夢魔を詰った。
「今日に限って、どうして出てきてくれないのよ、ナイトメア」

彼が出てくる時はいつも夢を見ない。まるで彼女の夢を彼が食べてしまうみたいに――。

今までにナイトメアが出て来ない時も、もちろんあった。ただ朝になると綺麗さっぱり夢の内容を忘れていた。でも、ぼんやりと頭に残る感覚はいつも同じで、訳もなく悲しい気持ちになっていることが多い。実は毎晩同じ夢を見ているのかもしれない。

アリスは風に当たるために夜のテラスに出た。城は夜でもライトアップしており、夜勤で働く兵士たちが点の形で見える。遥か下方には赤薔薇の生垣で出来た迷路があって、その先には静まり返った家々が並んでいる。繁華街は華々しいネオンで装飾されている。

夜風に当たりながら、アリスは夢の内容を反芻した。今回は途中で覚めたせいか、よく覚えていた。自分自身を抱え込み、透明な一滴が頬を伝った。やがてこらえきれずに嗚咽がもれた。
「大好きよ、姉さん……」
 
――姉の夢だった。

彼女にとって最も愛しいものは姉であった。そして最も恐ろしいことは彼女を妬む自分自身を知られることだった。

特別な姉、特別じゃない自分との違いを現実が突きつけ続ける。それはまるで覚めない悪夢だった。特別じゃない自分を抱き締め続けて、痺れた腕にすら気付けない。自分は自分だと簡単に言い聞かせられたら、アリスはこんな所にいない。憧れは憧れのまま、彼女は彼女のままだった。

勉強も運動もそこそこできて、人間関係もつつがなくこなせているけれど、彼女の中では空っぽな人間なのだ。人を引き寄せる魅力がない自分にはもう何も残らないと信じているのだ。

――特別な人が全て攫っていってしまうから。外見も中身も完璧だから、何もかもが上手くいって全てのものを引き寄せる。妹なのに凡人のアリスは大事なものを引き留められずに、ただ奪われるだけ。

同じ妹の立場にあるイーディスは、次女と違って甘え上手なので孤独になることはない。奪われたとしても、いくらでも代わりは見つかり、また愛された。

次女は長女のように特別でもなければ、三女のように愛され上手でもなかった。誰かに愛される実感を得られず、孤独を癒せずにいた。

「姉さんと私はどうしてこうも違うのかしら。どうして私には何もないの?」
 大事なものさえ手の平をすり抜けていく。いつも何かがずれていて、思う結果につながらない。姉が優しく慰めてくれる度、尊敬と羨望を覚え、劣等感が彼女を包む。

絶望と悲しみから目を背け続けた。認めてしまったら動けなくなってしまうから。

何でも持っていて『ずるい』ではなくて、『すごい』とか『素晴らしい』に置き換える。『妬ましい』のではなく『羨ましい』。『姉から離れる』のではなく、姉の苦労を減らすために早く『自立する』。感情に名前を付けるのに、いちいち頭を使って、あれこれ理屈をこねるようになった。

姉のことが決して嫌いではないのに感情を、心を制御できない未熟さがアリスは恥じた。せめて表面に出さないように良い子を装うだけで精一杯で――。

寒気を覚えて、慌てて部屋に戻った。まだ眠る気になれず、鏡台の前に座った。姉の面影を持つ、沈んだ顔をした少女が見つめ返してくる。銀灰色の平面に向かって問いかける。
「私はいつから、こんな子になってしまったの?」
 
鏡は冷たい月の光を映すだけ。

the have-nots

姉から人間の美しさを学び、自分でその醜さを思い知る。そうやって感情を無理な形に変換し続けて、自分を騙し通せる程、彼女は器用ではない。徐々に心は蝕まれていった。

現実はいつも痛くて理不尽な思いをアリスに強要する。命は平等なくせに、その扱いは全然平等じゃないと彼女は思う。例え自分が死んでも、あの日の父のように悲しむ人などいない。

孤独は辛い。深海にいるような息苦しさを覚える。アリスは廊下へと足を踏み出した。

「うわっっ?!」
 アリスは何か壁のようなものにぶつかった。しかし壁にしては弾力があり、肌触りが違っていた。顔を上げれば、そこには見慣れた顔があった。

「どうしたの? こんな時間に散歩? そんな格好じゃ風邪ひくぜ」
 別段驚いた様子もないエースはごく自然な動作でコートを脱いで、優しく彼女に着せた。ネグリジェで出歩くなんて、とよく姉に窘められたことを思い出し、少女の顔がまた歪んだ。

エースは覗き込むようにして頭を屈め、腫れた瞼を認めると、労わるように優しく微笑んだ。
「怖い夢でも見た? 怖い夢なら人に話すとスッキリするぜ?」
 返答はなく、彼はそれでも辛抱強く待った。こんな状態のアリスを放っておく訳にもいくまい。

「嫌なら無理に話さなくてもいいけど。でも君が落ち着くまで傍にいてもいい?」
 押し付けがましくない気遣いが彼女には嬉しかった。

「……いいわ。この世界に来てから誰にも自分のことを話したこと、なかったもの」
 そうしてエースを自分の部屋へ招いた。このときのアリスは寂しさのあまり用心と言うものがごっそり抜け落ちていた。夜勤のメイドに申し訳ないと思いつつ、お茶の用意を頼んだ。


手の中のカップを見つめ、アリスは小さく溜息を吐いた。中身を全て飲み干す前に話を切り出すつもりであったからだ。彼女がこの世界に来てから、姉のことを人に話すのは初めてだった。

「……何から話せばいいのかしら。まだ整理できていないのだけど」
 星明りの下、テーブル越しのエースは薄く笑った。鬱陶しいほどの爽やかさは今、鳴りを潜めている。

「話したいことから、どうぞ。分からないことがあったら質問するからさ」
 今夜の彼はいつもと違って揶揄がなく、ただひたすらお姫様に接するように優しかった。そうして彼女がぽつりぽつりと夢の内容を話すのを、余計な茶々を一切入れずに聞いていた。

「――夢を見たの。姉さんの夢を」

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アリスは姉が好きだった。彼女と夢で会えて幸せなはずなのに、その語り口は懺悔をするように重い。
「随分悲しそうな顔をしているね。元の世界のお姉さんに夢で会えたのに」
「……ああ。でも幸せだったの。幸せだったことが何だか悲しいの」

アリスは自分の言葉に不思議がるが、背景を話していなかったことに気付いて、話を続けた。その家族構成について、母の死後は家よりも仕事を優先する父のこと。姉が家を切り盛りしていること。自立に向けて、今までは出版社の手伝いをしていたこと――。

アリスは一気にまくし立てた。世間一般に家のことを説明するときは、いつもこんな文句を用意しているからだ。

「へー、立派なことだね」
 
それに対する聞き側は随分と素っ気ない。普通の聞き手なら、ここで感嘆するところだが、もちろん話し手もそんな反応を期待して話した訳ではなかった。リアクションが欲しいのではなく聞いてほしいだけなのだから。

相手がエースだったから、余計な気遣いをせずに話せるのだ。彼女よりも本音を隠すのは上手だから偽りが通じない。

「君のいた世界で子供でいられる時間なんて、人生のちょっとでしかない、短いものだろう? どうしてそんなに急いで大人になろうとするんだ?」
 羨むようであり、悲しむような顔をして、エースは問いかけた。

「姉さんにこれ以上負担をかけたくないからよ。姉さんには姉さんの幸せがあるのだもの。完璧で誰よりも幸せにならなきゃいけないわ。私なんかのために大事な時間を使ってほしくない」

物分りの良すぎる子供というものは大人にとっては助かりこそするが、味気ないものである。頭では事情を理解しているくせに納得はできないのが子供なのだ。ゆえに平気に見えても我慢している。子供でいる時間を削っているのだから、後で必ずツケが来る。

エースはあまり面白くなさそうな顔をしている。
「完璧? 君から見て、お姉さんは完璧なんだ? 君が自分のことを『なんか』扱いするほどに?」

アリスは席を立ち、テラスへと歩を進める。天頂に瞬く星へ手を伸ばす。もちろん届かず、その光を遮るだけである。
「そうよ。姉さんは私の理想なの。聡明で綺麗で誰からも愛される特別な人」
 その瞳は遠い星を映し、瞬いていた。星に願いごとを託す、子供の純粋な瞳に似ている。

同じく席を立ったエースが手袋に包まれた手で彼女の手をそっと降ろした。掴む指に少なからず力を籠められる。
「いいかい、アリス。綺麗に見えるものほど汚れている。もしも君には完璧にしか見えないのなら綺麗なところしか見せていないってことさ」

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アリスは掴まれた手を軽く腕を振って外し、睨みつけた。
「姉さんを知りもしないくせに」
「ああ、確かに知らないけど。でも苦労しているところなんか大切な人には見せたくないものなんだよ」

柳に風といった態度に、彼女は少し苛立ちを覚えた。
「知った風な口をきかないで」
 
距離をとったはずのアリスの髪を、エースがさらさらと手先で遊ぶ。そしてやや挑発的な視線を送った。

「君が大切で、自分の心配なんかしてほしくない。俺にだって分かるよ。君のためなら何だってしてあげたいっていう気持ちになる」

視線を真っ向から受け止めた蒼い瞳は、静かな怒りを湛えていた。
「あなたと姉さんは違うわ」
「……分かるさ」
 向けられている視線は冷めているのに熱い、とアリスは思った。

アリスの世界は姉を中心に回っていて、それが彼女の全てだった。自分の見ている世界が、自分のものではない感覚が支配する。綺麗なものが傍にいて、どんなに頑張っても憧れには追いつかず、やがて諦める。

「眩しい太陽の姉さんをただ呆けて見上げるだけの、ちっぽけなヒマワリが私よ。いや、太陽にわざとそっぽを向いて、ちらちら盗み見るようなヒマワリの方が合ってるかも。どちらにしろ太陽に始まり、太陽に終わる人生なの」

月明かりに艷めく薔薇の迷路を見ながら自嘲した。たかだか十五、十六ぐらいで人生云々などとのたまうなんて馬鹿にされてもおかしくない。

「君、おかしな喩えをするんだな」
 
そして全く見当違いな返答を続けた。
「太陽とヒマワリは全くの別物だぜ? 花と惑星、全然似てないだろ?」
「……似てないかしら?」
「全然!」
 
無無邪気な笑顔だった。今のアリスには何となく、そんな風に綺麗に笑えるのが羨ましかった。

エースは夜空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「太陽や花なんかより俺は星になりたいな」
「星に? あなたが?」

予想外な台詞にアリスの沈んだ面持ちが思いきり崩れた。頭に閃く星か、良くて夜空に飛ばされたときの星しか、今の彼女の脳裏には思いつかない。

彼女の理解が追いつくのを待たず、エースは続けた。
「七等星ぐらいの超目立たなくて、暗い星」
 爽やかさが鬱陶しいくらいに鼻に付く男がそこまで地味に成れる道理もない。あまりの不似合いさにアリスの目が点になる。

「……何でそうなるの?」
 
呆けた口から転がり出た言葉に、彼は不思議そうに首を傾げた。
「え、役なしみたいじゃないか?」
  この男に限らず、役付きは役なしに対して、皆遠慮がない。失礼この上ない発言も恐らく悪気あってのことではない。例え、どれだけ侮蔑の言葉が混ざっていようとも。

「無理よ、無理。エースは目立ちすぎよ。例え黒い……いえ、暗い星になっても超新星爆発とか起こして、ブラックホールになっちゃうのよ。それで周りのもの全部巻き込んで吸い込むんだわ。……何か今とあんまり変わんないわね」
 ふ、と口元を緩めた彼女に、エースが心外そうな顔をした。多分良くない想像が頭を駆け巡っていることだろう。

「ええ~? 俺は巻き込むけど吸い込みはしないよ。君は頭が良いけど、ときどき何言ってるのか分かんないよ……」

アリスは再び星を仰いだ。
「……姉さんは、あなたとも違う特別」

――特別な人という到底届かない存在に少なからずアリスは嫉妬する。わざわざ自分で口にしたことで、ますます自虐の念が深まっていく。八つ当たり雑じりに相手に言葉を投げつける。

「あなたが完璧じゃないから分からないんだわ。欠陥だらけだもの」
 相手が怒ることを彼女は期待した。怒鳴られたり、何かを壊したり、傷付けられても構わない。腐っている時、誰かがいれば、傷付けずにはいられない。彼が失望して、部屋から出て、二度と会わなければいい。

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確かに心細かったけれど、彼を招いたことをアリスは後悔していた。こんな醜態を晒し続けるくらいなら、いっそ離れてくれた方がいい。高すぎるプライドが自分勝手を増長させる。

けれども、やはり騎士は怒らなかった。否、怒気を隠しているだけなのかもしれないが。
「うわ辛辣。完璧なことのどこが良いのか、俺にはさっぱり理解できないよ。まあ、君のお姉さんと俺に一つだけ共通してることがある」

大分間を空けて、怪訝な顔のままのアリスが首を傾げた。あったか?と目が語っている。
「君を大切に思ってるってことさ」
 初心な乙女なら目を輝かせたかもしれないが、目の前にいる少女は初心どころかドライだった。

「……くさい」
「え? 何も臭わないけど?」
 確信犯だと彼女は断じた。

エースに想われるのはもちろん嬉しいことだ。――けれども。けれども譲れない一線というものがある。彼だけではなく、この世界全般に対して。

「私、恋とか愛とかじゃなくても、エースが好きよ。でも、ずっと一緒にはいられない。私には責任があるの」

エースと僅かに距離をとる。
「君が帰る理由って何? 自分を犠牲にしてまでやることがあるの?」

「――犠牲?」
 
突然ハンマーで殴られたような痛みにアリスは頭を押さえた。鐘のように何かが反響している。思い出したくないことが記憶に浮かび上がりそうになる。

「本当の君は帰りたい訳じゃない。ただ責任があるから帰らなきゃいけないと思ってる」
 追い打ちをかけるように彼の言葉が光の明滅する頭に衝撃を与える。耳を塞いでも意味がない。反響は頭の中から聞こえてくるものだから。

「でも君の人生は君のものだ。君のお姉さんのものじゃない。君の気持ち一つで世界は変わる」
 呼吸が荒くなり、目眩、吐き気までもよおしてきた。目の縁に涙を溜め、彼女は悲鳴混じりに反論した。
「そんなの分かってる。でもね世界ってやっぱり冷たいわ。完璧な人には完璧な人生が用意されているの」

とうとう膝と手を着いたアリスに、エースはそっと屈み込む。吐き出して楽になれと伝えるかのように小さな背中を撫でた。けれども彼女は奥歯を噛み締めて、こらえ続けた。上等な絨毯を握り締め、涙が点々と色濃い染みを作る。

「完璧で当たり前なら完璧なんて言葉が生まれる訳ないだろ。完璧以外は欠陥品になっちゃうじゃないか。完璧は少ないからこそ尊ばれるんだろ」
 アリスの心にガラスにヒビが入るような音が響いた。

「お姉さんが嫌い?」
 
アリスは一瞬の痙攣の後、頭を勢い良く振り上げた。瞳孔は開き、焦点は既に合っていない。

「何言ってるの。そんな訳ないじゃない」
 
動揺のあまり声が上擦って早口になる。相変わらず呼吸も荒かった。
「君はお姉さんがいると幸せになれないみたいだ」
 
その言葉を聞いた瞬間、白ウサギの声がアリスの脳裏に閃いた。

『あなたはこの世界でなら幸せになれる』

耳について離れない程それは甘くて魅力的な言葉だった。  白ウサギの言う通り、この世界は違っていた。同じ悪夢でも彼女にとって姉のいない最後の砦。アリス自身を見てくれる居心地の良い悪夢――。

けれどそんな妄想に浸る自分を嫌悪してもいた。いつまで夢に逃げるつもりだと冷静な自分が責め苛むのだ。どこまで逃げようとも自分から逃れることは何人も不可能なように。

「エース……」
 力無く開いた唇が騎士の名を紡いだとき、太い腕が彼女をしっかり包みこむ。温かさと同時に、思考を蕩かす芳香と僅かな血臭が鼻を掠めた。それら全てが現実の境界をあやふやにする。アリスを悪夢に引き込むには十分なほどの誘惑。

「君を虐める全てのものから守ってあげる。それが例え君のお姉さんだとしても……」
 それを聞いた途端、彼女の頭の奥で何かが弾けた。電気がパチッと火花を立てたみたいに――。

抱き締められた体を強張らせ、バネが弾けたみたいに突き飛ばす。

「止めて! アンタなんか、どうせ私の妄想なんでしょ? 夢や幻なんでしょ?! 聞こえの良い台詞ばっか吐かないで! 反吐が出るわ」

気付けば目の前の男を口汚く罵っていた。その顔は涙でぐちゃぐちゃになり、酷く歪んでいた。姉から逃げるために悪夢へ逃げ込んだ彼女を、現実に引き戻すのは皮肉なことに姉だった。

エースは怒ることも呆れることもなく、悲しそうな顔をした。
「アリス、君はまだこの世界が夢だと思っているの?」
 
再び伸ばされた腕を振り解き、後退るようにして距離をとった。

「こんな都合の良い世界なんて、ある訳ないわ。絶対信じない! ずっと側にいてくれるなんて、私だけを愛してくれる世界なんかある訳ない!
 彼女の心はこの一瞬だけ過去と現在が入り混じり、混沌と化していた。気を抜けば、目の前にいる男がかつての恋人の顔になる。一瞬で夢に溺れてしまう。

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――愛してると一度は言ってくれた。キスもしてくれた。でも、あの男は自分から離れていった。そして自分は大人の顔して、大人のフリをして、それを許容し、納得したつもりになっていたのだ。

世の中なんてそんなものだ。こんなことは日常茶飯事で普通で当たり前のこと。全ては自分が姉のような特別な存在ではないからである。

「いいかい。例え君にとって夢であったとしても、ここでしか生きていけない俺たちには現実なんだよ。そして君はその住人になりたくて、やって来たんだ」
 聞きたくないという拒絶から耳を押さえた。

嘘よ! 嘘! 私はこんな夢物語みたいな世界は知らない! 現実逃避するような、私はそんな弱い人間じゃない! 来たくて来た訳じゃ」

耳に当てた手が不意に温かく重ねられた。口から勝手に綴られる言葉が止んだ。
「うん。君は強い子だ。大好きな人たちから夢まで取り上げられそうな、かわいそうな子だ」
 いつものからかいなど微塵もなくて、エースは優しく宥める。騎士を演じている。

そこでようやくアリスは自分を取り戻した。猛烈な自己嫌悪が津波のように戻ってくる。蚊の鳴くような声は空気に震え、溶けてしまう。
「…………ごめん。ごめんね。こんな酷いこと言うつもりなかったの。私逃げてるの。でも、そんなこと認めたくなかったの」

「別に逃げたって良いと思うよ。好きなだけ、ね」
 小さな手がコートの裾を掴んだ。迷子が大人の服を掴む様子に似ている。言葉にできない、微かな微かなSOS。

「……どうして、そんなに甘いことばっかり言うの」
 騎士はその手を払わない。他でもない自分を頼る、その手だけを掴み返すために、ここにいる。

「これ以上今の君が勝手に傷付くのを見たくないから。君は真面目だから、どんどん自分を追い詰めて、いつか逃げ場をなくしてしまう」
 胸が詰まって、行き場のない少女は嗚咽をこらえきれなくなった。エースの胸にすがって、大きな声を張り上げた。

泣き止んで落ち着くまで待ってくれたエースに、アリスは顔を上げずに話しかける。身も世もなく泣かせてもらった後は何となくバツが悪いからである。

「どうしてエースはこんなに私に優しくしてくれるの?」
 
哀れにも掠れた鼻声が聞き取りづらいのか、エースは耳を近づけた。
「何度も言ってると思うんだけど君が好きだからだよ。恋愛的な意味で」
 相変わらず諭すような言い方で繰り返す。青い瞳は探るように騎士を見返す。

恋だの愛だの、もちろん彼女は信じていない。絶対に言葉の裏があると思っている。疑りの深い目で相手の目を穴が空くほど見つめた。しかしいくら見つめたところで何かを悟らせるほどこの男は甘くなかった。

「騎士だから? 私に同情してるの?
「そう答えた方が良いの? 俺が義務とかで君に優しくしていると思いたい?」
 アリスは唇をぎゅっと結んだ。溢れそうになる言葉を絶対に漏らさないように。

「誰であろうと君を渡したくない気持ちだけは本当だよ。君を不幸にするのも幸せにするのも俺以外許せないくらい
 頬に当てられた手を掴み、アリスは俯いた。目の縁に溜まった涙が真珠の粒のようにこぼれ落ちた。


 ベッドに潜り込んだアリスの髪を、ベッドの縁に腰掛けたエースの指が梳く。子守唄を歌う代わりのように優しく優しく梳いていく。
「俺は後ろ向きで頑張る人が好きだよ。何も考えずに前向きにヘラヘラ笑ってる奴なんか殺したくなる

「それって丸きりあなたのことじゃないの?」
 
髪を嗅がれて気恥ずかしくなったアリスは減らず口を叩いてしまう。そんな彼女を騎士は愛おしげに見下ろしている。
「自分だからこそ甘くなれるんだ。今までの自分を否定する気にはならないからね」

「私は……そこまで開き直れないわ。これが自分なんだと自覚して、嫌悪を抱いて、変わりたいと願うのにちっとも変われない」
 暗い表情のアリスに、彼はにっこりと笑ってみせた。

「変わらなくて良いよ。自分を嫌う人ほど俺は好きになる。希望を持って、前に進めない人にほど手を差し伸べたくなってしまうんだ」

ベッド脇から立ち上がり様、相手の耳に聞こえないくらい小さく言葉を漏らした。
「まあ俺が差し伸べなくても、きっとまた君は立ち上がって、向かって行くんだろうけどね」
 彼がそれ以上アリスに触れることはなかった。

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●あとがき

挿絵2は結構描くのに長い時間を要しました。構図が思いつかないというか。出来上がってみると、妙にリアルを求めてて、何か気持ち悪い気がするわー。エースの本性が出てる気がするし。

挿絵3は本当は「太陽とヒマワリ」というタイトルにしていたのですが、うんと星っぽかったので、急遽変更しました。実際あんまり時間かけてない訳だけども、雰囲気は出てる気がする。

挿絵4のテーマは艶めかしいアリス。拒絶の態度なんだけども、どこか誘うような危うい感じ。しばらくイタイ感じのアリスが続いていますが……直に終わるんで勘弁して下さい。

挿絵6は力入ってます。優しくしている その実、追い詰めている。深い闇にアリスと共に堕ちようとしている。危なっかしさがエースの特性なんでしょう。

初めてフィルターを色々と触ってみた。自作ゲームでどうしても背景に費やす時間が惜しくて、手で描いていたのをフィルターで代用したら、割とイケることに気づいた。地面とか岩とか余裕です。