答えの無い問い~ハートの国のアリス異次元~
第二章 歯車のズレた音
第四節 恋する時計
エースは少しずつ世界の歯車と噛み合わなくなっていった。小石が挟まって動かなくなってしまったみたいに――。
天気は快晴、時間帯は昼。洗濯物を干すには好都合である。メイド姿のアリスの背中を眺めながらエースは尋ねた。
「いつ帰るの?」
一瞬だけ痙攣した小さな手からシーツが滑り落ちて、まっさらなシーツには汚らしい土がこびり付いてしまう。洗濯し直さなければならないことを悟り、アリスは溜息を吐いた。
再びエースが問うた。帰ってほしい訳ではない。むしろ居てほしいと思っている。しかし彼女が帰りたがっていることも知っていた。
「そのうちよ」
細い喉から搾り出した声は震えていた。まるで追い詰められた小動物に似ている。エースは知らないが、彼女はポケットの中に小瓶を入れて持ち歩いている。勝手に嵩を増す液体は恐らく彼女の帰郷の念を表している。
「君は帰らなくちゃいけないって思ってる?」
青い瞳が大きく見開かれた。全てを見透かすような赤い瞳はただアリスに注がれている。
余所者は所詮、余所者である。いつか帰るのが当たり前で、いわば休暇のようなものである。元の世界に帰れば、こちらの世界など夢として忘れてしまう。余所者は簡単に居場所を作り、自由な存在である。役割などなくても生きる意味を見出し、生きることができる。そんな生き方の体現者であるアリスが、エースには羨ましい。
彼はその立場上どうやっても役割から逃れることは不可能であった。それは自分で望んだ身の上ゆえ、なおさらのこと。
この、前にも後ろにも進めない、うじうじとした少女を見ていると、手を伸ばさずにもいられない。自分とよく似た、非なる少女を慈しむと同時に壊してしまいたくなる。こんな時でも、彼は決められない。いや、アリスにとっては決められない方が都合が良かったのだが。
予定調和など糞食らえである。アリスをここに残らせれば、元の世界から一つ役割を外すことになるのではないか。少しでも世界を変えられるのならば――
やがて大きな雲が日光を遮った。
「あ……」
強い突風でシーツがアリスの手から飛び上がり、エースの足元に落ちた。無言で騎士はそれを拾い上げ、落とし主が来るのを待った。彼女はシーツを受け取ろうと手を伸ばすが、視界は白く覆われた。シーツがアリスを拘束したのだ。
「ありが……? エース?」
耳元で低く囁いた。
「帰りたくなくならせてあげようか」
きっとエースは喜んで彼女を迎え入れることだろう。
「――どういう意味?」
騎士を押し戻そうと腕を突っ張るが、女の細腕ではびくともしない。ますます頭が硬い胸板に近づいた。その瞬間アリスは違和感を感じた。何かが違っていたからである。
「……解らないかな。解ってほしくもあるし、一生解らないままでいてほしい気もするな」
エースは抱き締めているのではなかった。シーツで拘束しているが、彼女の頭を自分の左胸に当てているだけである。愛情を示すのではなく何かを伝えるかのように。
「知っているかい? この世界では時計を破壊することは重罪なんだよ。一万回時間帯が変わるまで牢獄に閉じ込められるんだ」
なぜ時計のことを今聞かれるのか、彼女には分からなかった。そもそも頭の回転が鈍くなっているのかもしれない。
――時計を壊す。元の世界では物理的損害以外には罪にはならない。そんな無期懲役の罰を受けるほどの罪にはならない。ならばエースの言う時計とは一体何だ。アリスの知る時計とは別物を指すのだろうか。
「君はこの世界に来て、時計をどれだけ見たことがある?」
アリスは思い出そうとするが大して思いつかなかった。ペーターが持っている、銃に変わる不思議な懐中時計。そしてユリウスの周りの、どれもこれも壊れた時計たち。
この世界では時間帯でしか時間を計れない。つまり時計自体が無意味に等しい。そんなものを壊すことがなぜ処罰の対象になるのか、アリスには解らない。
「時計、使わないわよね? 必要ないんじゃない?」
「ところが、この世界ではなくてはならない物なんだよ」
「行ったり来たりする時間も計れないのに?」
「時間を計るための物ではないんだ」
「……それって、どういう……」
エースはそれ以上に詳しく説明してくれる気はないようだった。口を噤み、じっとアリスの胸元に目を向けているだけである。
ただそれだけのことなのに、彼女の方は息が詰まりそうだった。視線で首を絞めるような、心臓を掴むような、そんな本能的な恐怖を呼び起こす視線――。
アリスは視線を逸らせず、耐え切れずに腰が砕けてしまう。何が何だか分からずに左胸を押さえて荒い息を吐く。逃げたくても彼女の膝は動かない。
「……俺は時計なんか嫌いだよ。こんなものがあるから役なんてものが続く。いつまでも縛られるんだ」
「……分かんない。エースが何を言っているのか、私には全然分からないわ」
「俺もよく分かんない。なぜ君にこの話をしてしまったんだろう」
エースは能面のような表情を崩し、気の抜けた笑いを返した。
――歯車のズレる音がした。

●あとがき
今までカラーを貫いてきましたが、このシーンだけは彩度の低い絵にしたかったのです。見ようによっては聖女を誘惑する、卑猥な騎士のようですね。何の話だ。エースの背中付近を結構、四苦八苦してしまい、ちょっと後悔。白状すると、デッサン下手なんですよ、私。
一応、第2章はここで完結します。次からは第3章ですね。普通に本みたいだ……。…( = =)