ワンダーワールドの虹~ハートの国のアリス以前~
Act.4 薔薇の城の憂鬱
a.不機嫌な青空
上機嫌なところで、嫌いなものを目にしたら誰であれ、不愉快にもなるだろう。
霧がかった生垣の迷路に、赤いコートの男が雨に打たれている。真紅のバラを握り潰していた彼に、紅い傘を差して、紅いドレスをまとった、バラの化身のような女性が声をかけた。
「エース。貴様、私のバラに狼藉を働くでない。首を刎ねられたいのか?」
バラのように華麗な外見に相応しい残酷な言葉を、やはり赤い唇から囀った。まるで先のことなど聞こえなかったかのように、ハートの騎士は爽やかな笑顔で上司を迎える。
「陛下。こんな雨の中、散歩とは珍しいですね」
「…………醜いな」
水も滴るイイ男というフレーズがしっくりくるほどに、エースは柔和に整った顔立ちをした男だった。強いて言うなら、雨よりは快晴の方がその笑顔にはよく似合う。
世間一般で美丈夫と通じるエースをして、醜いと言い切るビバルディは絶世の美女だ。美形自体は然して珍しくも何ともない。この世界の住人は美人で溢れ返っている。
しかしビバルディは他人の顔に関して美醜、好悪を口にしたことは過去に一度もなかった。潔癖症の彼女が許容できないのは心にある一点の穢れの方だ。全てが汚く見えて、綺麗なものは何一つとして残らないと、幼子のように嘆いている大人だ。
「あれ、もしかして機嫌悪いですか?」
「散歩の途中で雨に降られれば当然、不機嫌にもなろう。更に貴様がわらわのバラを勝手にむしり取って散らす場面に遭遇したのだから、はらわたも煮え繰り返ろう」
先程からバラの花弁をパラパラばら撒く騎士の手を、女王はじろりと睨めつけた。
「それに貴様とて、既に不機嫌ではないか」
エースとも永い付き合いゆえに、ある程度の機微が嫌でも分かるのが彼女には癪だった。部下の機微など暴君にとっては益体のないことであり、ありがたくもないことだ。
女王の指摘には答えずに、騎士は混ぜっ返す。
「陛下、怒ってばかりだと皺が増えますよ。雨ぐらい、別にいいじゃないですか。陛下には傘があるんですから。俺なんかこの通り、ずぶ濡れですよ」
濡れるのが嫌ならば、とっとと雨宿りでもするなり、テントでも張るなりすれば良いのだが、エースは何もしなかった。茶色の髪は絶えず雫を落とし続け、滑らかな肌を幾筋も伝う。暗紅色になったコートは水を吸って、ずっしりと重そうだ。
「はーー……醜いのう。憂鬱じゃ」
興醒めした素振りで女王は踵を返した。
