ワンダーワールドの虹~ハートの国のアリス以前~

Act.1 鬱陶しい兆し

それは雨に劣らぬほど珍しいことだった。

規則的な機械音と僅かな物音が、時計だらけの小部屋の静寂を強調する。顔を上げた時計屋は、何時間帯ぶりかに作業の手を止めた。

作業用の眼鏡を金属の作業台に置き、ため息混じりに目元を揉む。軽く右手を耳に添え、耳をそばだてる。

「妙だな。風の音ではないな……」
 一つ伸びをして、すっかり冷たくなったコーヒーを呷った。
「最後に休憩してからどれだけ経ったものか。……ふっ、考えても詮無いことか。無駄だな」

昼夜問わず働きアリと化したユリウス=モンレーには、もはや就労時間など数える気も起きないようだ。働く時間を数えることなど、この世界では大した意味を持たない。ここではゲームを続けることこそが生きる道。金など二の次だ。大切なのは役割があるということ。

だから役割がある彼はそれなりに幸せなつもりのようだ。否、幸せを理解する暇すら与えないほどに自らに多忙を課した。彼の関心事は、いかに手際良く仕事を終わらせるかに尽きるのみ。もっとも彼が生きている間には終わりの来ない仕事だが。

「始めは夜の時間帯かと思っていたが――――今はいつだ?」

夜ほど暗い訳ではなく、夕方の赤光でもなく、昼の白光ですらない。珍しく日が差していないのだ。視力の弱いユリウスは好奇心のままに歩み寄り、窓の外を見てようやく得心した。 「雨か。珍しいな……」

ワンダーワールドの天候は時間帯に限らず、常に快晴と相場が決まっている。何らかの変事がなければ、世界の法則が乱れることもない。

「しかし妙だな。引越しでもないのに空間に歪みが生ずるとは――」

不意に襲った予感が渋い顔を招き、爽やかな笑顔と哄笑の幻が響く。友人であるハートの騎士と別れてから大分、時間は経過した。約束の時間に遅れようと、ユリウスは歯牙にもかけない。その約束は生まれたときから、既に破却される運命にあるのだから。

そんなことよりも彼にはもっと深刻な、憂慮すべきことがある。無論あの殺しても死ななそうな友人の安否を気遣う殊勝さなど一片たりとも彼は持ち合わせていない。

「何だか厄介事に巻き込まれそうな気がする……。鬱陶しい天気だ」
 あの不運な友人がユリウスの領地にまで、火の粉を撒き散らさなければ良いだけの話だ。それが一抹の不安の正体だと、無慈悲な親友は断じた。

雑然とした作業場には、ただ時計たちの鼓動が響くばかりである。

ユリウスに休憩するつもりなどなかったが、俗世の耳慣れぬ音が何となく気になってしまった。何となくで行動することなど、彼の人生においてついぞ無かったはずなのに。

肉体的疲労を感じて仕方なくとる通常の休憩と違い、ユリウスが自発的にとった休憩。それはワンダーワールドの雨に劣らぬほど珍しいことだった。

julius

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