ワンダーワールドの虹~ハートの国のアリス以前~

Act.3 未だ見ぬ期待

b.無気力症候群

いつにも増して、その日の彼は無気力だった。

書斎の窓ガラスを雨の雫が絶え間なく伝い落ちる。それを追う紺碧の瞳は、書斎の主のものだった。

柔らかそうな椅子に腰掛け、白いスーツを身にまとい、紅茶を嗜む姿は貴族然としている。優美な顔立ちは物憂げであり、醸す空気は優雅でありながら、気だるさばかりが目立つ。彼の特徴である奇妙なシルクハットは机の上に鎮座している。

つと涼しげな目線を扉の方に向けた。すぐに扉を雑に叩く音がして、部下が名乗る前に彼は入室を許可した。扉の前に立つ人物が、既に誰であるかを確信しているからだ。

「ったく、びしょ濡れだぜ」
 背後の高級な絨毯に、点々と染みの行列を作りながら、長身の若い男が書斎に入ってきた。茶色のウサギ耳付きの、見事なニンジン色の金髪から雫を滴らせる。上司とはまた違う趣の、強面の美男だ。

「ブラッドー、ガキ共小雨の段階でさっさと詰め所に引き篭もったんだぜ。子供を雨の中見張りさせ続けて、肺炎にでもなったらどう責任を取るだの、保険金をくれるのかだの喚きやがる」
 前髪をかき上げて、給金泥棒共めと吐き捨てた。

上司に対する言葉遣いとしては問題外もいいところだが、それが彼の常態であり、ブラッドもそれを良しとして咎めない。

「今度やったらぶっ殺す」
 ウサギ男は殺気立っていた。恐らく問答では済まないこともして来たのだろう。しかし帽子屋ファミリー内では、三月ウサギ VS ブラッディ・ツインズの仁義なき戦いなど別段珍しいことではなかった。よくある日常の光景なのである。

ブラッドは気に留めることなく、紅茶を干した。
「別に目くじら立てる程のことでもないぞ、エリオット。むしろ門番共は手を抜くくらいで丁度いい。奴らが頑張りすぎたお陰で、来客がめっきり減ってしまった。いいから、お前ももう休め」

ボスの気遣い溢れる命令はしかし、エリオット=マーチには不服なようだった。
「雨ぐらい何ともねーよ。ブラッドのためなら、雨でも槍でも銃弾の雨でも働く」

「私が良いと言っているんだ」
 決して口調を荒げた訳ではない。能面のような表情は何も覚らせない。強いて言うなら、ブラッド=デュプレの発する言葉の温度が下がった。それだけでもエリオットを従わせるには十分だった。ご主人様には絶対服従のウサギ……ではなくて自称・犬なのだから。

「……分かったよ。ブラッドがそう言うなら少しだけ休む」
「ああ、そうすると良い。雨が上がったら、また働いてもらうからな」
 満足気に顔を綻ばせたブラッドは、不機嫌そうなエリオットとは対照的だ。恨めしげにエリオットが空を睨む。空は嘲笑うかのように雨の勢いを増し、ウサギを見下ろしている。

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