終わらない咎~ユメ~

永遠の吹雪の中を、黒い影が幽鬼のように移動する。ボロボロの黒いコートをたなびかせ、旅行鞄が雪を引き割り、筋道を作る。男の足は何処へ向かうとも知れずに、ただ休みなく前後に運動していた。休むことが罪であるかのように、ただ一心不乱に前へ進んでいた。

「イリヤ……イリヤ……ごめん、ごめん、イリヤ……」
 狂ったように繰り返される男の呟きは、猛吹雪によってかき消される。一片の温かみさえ許さないかのように、冷気は男を責め苛む。

「キリツグ!」
 はっと目を剥いて、切嗣は顔を上げた。愛しい娘の声を聞き違える父親など、いようはずもない。淡い輪郭を描いて、白い少女はそこに立っていた。淡い光を放つ銀髪と木苺のように赤い瞳は、雪の妖精の如し。母親のアイリスフィールの面影を強く残した小さな少女は、腕を広げて父親を迎え入れる。

「イリヤ……!!」
 男の体は彼女の幻影をすり抜けて、雪に隠された奈落へ落ちる。勿論、そんなものは切嗣の幻想だ。彼女は冬の城という籠に囚われた鳥だ。あの老獪(ろうかい)なるアハト翁の目を逃れて、か弱い少女が脱出などできるはずもない。

白い闇に意識を侵されながら、切嗣は謝罪の言葉を繰り返した。豪風の中、きりもみにされて落下する体はやがて微かな音を立てて、雪に隠れた岩肌に叩き付けられた。

どうして少年を引き取ってしまったのか、切嗣には分からない。現世に顕現した地獄の中でただ生きていてくれたという、それだけで彼の嘆きは多少慰められた。

最愛の妻と子を己が理想のために棄て、その理想ですら棄ててしまった自分が今更何を償うというのか。例えこの先一生かかっても償えるはずもない。残された人生でさえ僅かなものでしかないことを切嗣は知っている。

士郎との生活は優しい陽だまりにあるような、のどかなものであった。常に死を意識していなくても許される世界がそこにあった。できることならば、切嗣は娘をここに連れて来てあげたいと願った。いつも願いだけで終わっていた。

もう何度挑んだか分からない、決死の訪問は願いを潰しにかかる。愛しい娘の影にすら、かすりもしない。だが無理と分かっていようと諦められる訳がない。それが情というものだった。

せめて子供たちの未来が明るくあるように。聖杯戦争がもたらす醜い妄念の闇が覆うことのなきように。生きてさえいれば、展望が開けるようにしてあげたかった。

もっとも切嗣にできたことは次の聖杯戦争が起きないようにすることだけだった。先の未来で、それすらも成し得ないことなど、切嗣は知る由もない。

「うそつき」
 また娘の声が耳を打つ。憎悪に染められた双眸が父を睨みすえる。かつて、くびった女と同じ顔をして。彼女の背後には妻だったもの、パートナーだったもの、親だったものたちがひしめいている。更に周囲には切嗣に殺された、形無き黒い塊がうごめいている。皆、一様に切嗣に怨嗟の念を向けている。

白い紅葉の手が切嗣の首にまとわりつく。まるで聖杯の中身の心象世界にいたときのように。違うのは、絞めて絞められる立場が逆転しているという点だけ。悪夢を受け入れて、切嗣は静かに瞼を閉じた。

――このまま裏切った者たち全ての呪詛に、取り殺されるのがお似合いか。それもいいかもしれない、と口元が歪む。厳しい声が耳を貫いた。
「生きて、煉獄に焼かれ続ければいい」

冷たいまどろみの中、ゆっくりと目を開けた。痛覚が残っている以上、まだ体は生きている。けれど心はとっくに折れていた。

まだ虚実の中にあった切嗣の思考を、現実が容赦なく引き剥がす。左足が折れ、背中を強かに打ちつけたようで、ヒビくらいは入っていると彼は分析した。頭部は熱く、小さな傷からおびただしく出血しているらしい。右目が血でよく見えない。

生命活動に支障はないが、これ以上の捜索活動は断念せざるを得ないと機械の心が断ずる。

「今回も駄目なのか? これまで、なのか?」
 今まで何度となく娘を取り戻すために、彼はこの冬の城へ出向いてきた。だが広大に張り巡らされた精緻な結界に阻まれて、結果はことごとく失敗。衰えた体には救出作戦の進展の見込みは皆無であり、彼はいつも何を掴むことなく帰還を余儀なくされる。半病人と化した体は徐々に活動時間が狭まり、人としての満足な生活も送れなくなってきた始末だ。

次にまたここへ来られる元気が戻るのかどうかも怪しい。いっそ、ここで果ててしまえたら楽なのかもしれない、と甘えた発想が切嗣を誘惑する。しかし、どんなに軋んでガタが来たとしても彼は機械だった。現実を見据えろ、と強く自身に言い聞かせる。

「僕がここで死んだとしても無意味だ。誰も死体を発見してくれないし、イリヤは助けられないままだ」
 凍傷になりかけている末端に鞭打って、体を起こす。

――生きてさえいれば。生きてさえいれば、何かが変えられる。1%以下の可能性を信じて、切嗣はまだ生きている。幸せになろうなんて、既にこれっぽっちも思っちゃいない。幸せになる権利など、父親を撃ったときに自分から棄てた。

本来ならば味わうことのない幸せを知ってしまった。彼にはアイリスフィールとイリヤが与えてくれた幸せがあれば、それで良かった。だからこの先、自分にどんな不幸が降りかかろうとも構わなかった。自分以外の人にさえ不幸が降りかからなければ。

故に娘の不幸など許容できるはずがなかった。恐らく次の聖杯戦争に勝つために、イリヤは過酷な試練を強いられていることだろう。父の裏切りを知り、それ故に父を怨み、呪うことだろう。第四次聖杯戦争の雪辱に燃え、己が運命の絶望に打ちひしがれることだろう。そんな子供の人生を許容できる親がどこにいる。

「イリヤ、きっと。きっと助けに行くから」
 だから、どうか今は――――。無責任な誓いを胸に、切嗣は冬の城に背を向けた。

  

冬木市の港に到着し、足元すらおぼつかぬ状態で家路を歩く。絶望の黒に塗り潰された瞳は今は何も映していない。ただ彼の脳裏には愛娘だけが居座っていた。

今回も彼はまたイリヤを取り戻すことができなかったのだ。彼女はきっと怨んでいるだろう。切嗣が消えてしまった後でさえ、怨み続けることだろう。彼にはそれが哀しかった。やり場のない憤りは一体どこにもたらされるのだろう。養子の士郎に向けられるのだろうか。

世界中を冒険するなどと大法螺を吹いて、士郎を一人にしておくことが堪らなく切嗣の胸を締めつける。

けれども彼は後悔していない。結果はともかく、その過程にはきっと意味がある。そして元気のいい少年の笑顔が胸に飛び込んできた。

「爺さん、お帰り!」
「…………ああ、ただいま士郎」

――もう僕には、皆の幸せを祈ることしかできない。――ごめんなさい。

最後の最後で、衛宮切嗣はようやく安堵を得る。衛宮士郎へ、最期の理想(呪い)を託すことによって。

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●あとがき

私は切嗣さんが大好きです。人殺しが上手いところが好きな訳ではない。その心とか精神性が好きなんだろうと思う。

今回の話は切嗣さんが何度も旅したときの、ほんの一場面に過ぎません。でも一回一回の旅路毎に確実に命と心を削っています。

そんなボロボロになるまで頑張る切嗣さんのお話です。傍から見ると切嗣虐待小説でしょうか。コメディしか書いたことない私が初めて? ちゃんとお披露目したシリアス小説。笑いどころなど皆無です。

幸せになって欲しいという心と、決して叶えられることのない願いに突き動かされる切嗣さんはとにかく心を揺さぶります。

ちなみに柴咲コウの「影」とか「最愛」聞いてたら、切嗣さんが浮かんできた。白夜行も大分痛いお話だったなあ……。